「もうしわけない味 - 平松洋子」アンソロジー ビール から

 

「もうしわけない味 - 平松洋子」アンソロジー ビール から

 

真夏の名古屋は猛烈な暑さだ。ぎっしり満員の新幹線からほうほうの体でホームに降り立つなり、容赦のない熱波が襲いかかる。
「暑いですねえ、名古屋は」
「いやもう暑い」
「なんでこんなに暑いのか」
会うなり、お互いおなじせりふばかり繰り返している。四日市から車でやってきたコウイチさんと名古屋駅太閤通口で落ち合った。
「仕事が終わったらおいしいもの、食べに行きましょう。いや、イッパイ飲[や]りましょう」
飲みともだちは話がはやい。待ってました。
「行きたいところがあるの」
「どこですか、それ」
「あのね、広小路伏見角の居酒屋『大甚』」
「大甚」は創業明治四十年。おおきな「酒」ひと文字をくっきり染め抜いた紺暖簾を掛け、日々続々とやってくる地元客を迎え入れる。玄関脇の赤煉瓦のへっついには、年季の入った燗付場。でんと座った白木の四斗樽の木栓をひねっていったん錫の片口に受け、それを徳利に小分けしてからおおきな羽釜[はかま]で燗をつける。いやもう「大甚」の燗酒のみごとな塩梅にはうなります。これまでなんど居酒屋好きから聞いたことか。「日本の居酒屋の鑑」と誉れも高い大衆酒場である。
「いいですね『大甚』、行きましょう。開店は何時でしたっけ」
「ええと、たしか四時」
聞くが早いか、コウイチさんはたちまちハンドルを伏見通り方面へ切り替える。
「だいじょうぶ、あとの運転、わたしが代わりますから」
助手席の妻のキョウコさんも馴れたものだ。ときはまさに四時ぴたり、仕事のまえに「大甚」でビールを駆けつけ一杯。とびきりの路線変更に沸きたち、うだる暑さが一気に遠のく。
年季の入った「酒」の暖簾を分け、がらりと戸を引くと広い店内にはぽつんとひとり客、奥まった席にふたり客。みな白髪まじりのおじさんだ。入り口ちかくに席をとり、落ち着く間もなく立ち上がり、小鉢がぎっしり並んだ大卓へ移動してあれこれ物色する。
おから。かしわうま煮。きゅうりの酢の物。鯛の子の煮もの。魚の唐揚げ。たけのこ煮。ポテトサラダ。ほうれんそうのおひたし。厚揚げとさやえんどうの煮もの。きぬかつぎ・・・目がよろこんでよろこんで、迷いたがる。小鉢はどれも二百円か三百円。
「ええと、わたしはまず枝豆と筆しょうが」
「じゃあ、ごま豆腐」
いそいそ小鉢を自分の席に運ぶ。
「それからビール1本!」
すかさず前掛けすがたのおにいさんが、栓抜きでしゅぽっ。年季の入った黒光りする卓のうえに、たちまち夏の風景が広がる。ごくごくごく。つめたいビールを飲み干して息をつくと、午後四時十六分。そこには桃源郷が広がっていた。
居酒屋は夕刻に暖簾をくぐるにかぎる。口開けのころ、すぐ。掃除したての店内にはすがすがしい風が通っている。お客のすがたはぽつり、ぽつり。しんと静まって、こころなしかみなおとなしい。けれども、どこかうれしそうだ。
「優越感ですね、こんな早くから堂々と飲んでいる、っていう」
コウイチさんが三杯めのビールをごくりと飲み、ついでに枝豆をみっつ、たて続けに齧る。
そのとおりだ。日の高いうちから飲んでいる。世間さまはりっぱに仕事をなさっているというのに、こんな時間からもう飲んでいる。えへへ、すみませんね。だれに気がねをする必要もないのに、そこはかとなくもうしわけない気分に襲われるのだが、しかしそれを凌駕するのは優越感だ。自分だけこっそり贅沢をしているとくべつ感だ。いやあ、うれしい。酒のおいしさに自慢げな気分がくわわる。
おなじ居酒屋でも、時間によってまるで味わいがちがう。暖簾を掛けてすぐのじぶん、日暮れまえ、すっかり満員になってがやがやと喧噪の極まる夜七時、八時ごろ、店に流れる空気はべつものだ。刻々とうつろう空気の流れもまた居酒屋の醍醐味。それに気づいたのは、居酒屋に通いはじめてからずいぶん経ったころだが、すると、居酒屋通いがいっそうたのしくなった。
だから夕暮れどき、ひとりで暖簾をくぐるときもここらたのしい。口開けのころあいにするっと身を滑りこませ、のんびり徳利を傾けるうち、窓のそとに夕闇が迫る。今日もまた、ゆるやかに居酒屋の時間がはじまる。席をふたつ空けたところにひとり、カウンターのすみにひとり、だんだんひとのすがたが増えていくと、そのぶん店のなかの空気に厚みがそなわり、ゆっくりと密度が上がってゆく。だれもほかのお客のことなど意に介していない。けれど、ほんわり宿っているのは、ひとが醸し出す熱のようなもの。すでに、さきごろのすがすがしさとはちがう情感が流れはじめている。その変化に肌で触れることができるのは、早々に暖簾をくぐった果報だ。
そうこうするうち、いつのまにか居酒屋の時間のなかにまぎれ、酒の味わいのなかにゆるりと溶けこんでゆく。
がらり。使いこまれた「大甚」の戸が開いてまたひとり、お客が入ってきた。夏帽子をかぶり白い麻の開襟シャツをきてハワイ航路に出るみたいなおじさんだ。創業百年を越えてなお、「大甚」は毎日変わらず、おじさんたちを迎え入れてきた、いい店だなあ。思わずグラスに手を伸ばして飲み干したら、絶好のタイミングで店のおにいさんが新しいビールを卓にとん、と置いてくれる。
「大甚」の柱時計の針は、まだ五時を回ったばかりだ。