「最初の一歩は自分の心から - 高田明」私の「貧乏物語」 から

 

「最初の一歩は自分の心から - 高田明」私の「貧乏物語」 から

 

僕が生まれたのは一九四八(昭和二三)年、日本が戦争に負けて三年後のことです。その当時の暮らしを振り返ってみると、日本が今のように恵まれた状態になかったことは確かです。
僕はずっと家電を扱う仕事をしてきましたから、少し当時の家電のことを思い起こしてみようと思うんですが、一番古い五歳くらいの記憶にはまだ家電が出てこないんです。例えばご飯を炊くにしても、炊飯器なんてもちろんない。そのかわり、家の中に竈があって、母はそこでご飯を炊いていました。炊き上がったご飯をお櫃[ひつ]に移しかえて、それを母がみんなによそってくれるわけです。お風呂は五右衛門風呂と呼ばれるもので、これは鉄の風呂釜の下で火を焚いて湯を直接温める仕組みになっていますから、当然そのままでは入れない。足をやけどしないように、木の踏み板を沈めて入るんです。トイレはもちろん家の外にある。そういう時代でした。
一九五〇年代の後半になってようやく白黒テレビ、電気冷蔵庫、洗濯機が「三種の神器」なんて言われ方で紹介されはじめましたが、その当時うちにはまだ洗濯機がありませんでした。洗濯板を使っていた母の姿を覚えていますね。お小遣いといってもせいぜい五円で、それでパンやお菓子を買っていました。覚えているのは五厘玉という大きな飴。これがちょうど五円だったと記憶しています。今では考えられないことですが当時はバナナが高級品で、初めて食べたときは世の中にこんな美味しいものがあるのか、と本当に驚きました。バナナは当時、病気になったときに食べさせてもらえるような特別な果物だったんです。モノの値打ちが今とまるで違ったということがお分かりいただけるかと思います。
当時を振り返ってみると確かに貧しくはあったでしょうけれども、貧乏で辛いとは全然感じていませんでした。貧乏はちっとも苦にしていなかった。食べるものに窮するほどの貧しさに苦しんだ経験も、僕にはありません。そうすると一体何をもって貧乏とするのかな、と考えてしまうんです。あのとき自分を貧乏だと思わなかったのは、周りの人も似たり寄ったりの暮らし向きだったからかもしれませんね、そうすると貧困の問題は、物質的な貧しさとは別に、やはり周囲との比較において、より強く感じられるものじゃないかとも思うわけです。よく言われる格差社会という言葉にも、 その中に比較、つまり「差」が入っているでしょう。ですから日々のパンも買えないような極端な貧困は別としても、周りとの比較に依らないで、いかに自分の心を豊かに、満ち足りたものにできるかということが非常に大切なんじゃないかと僕は今、思っています。
格差社会と盛んに言われるくらいですから確かにいろんな格差があるわけですが、僕はずっと「格差」という言葉を持ち出した時点で自分に負けてるんじゃないか、とも感じてきました。地方格差ということもよく言われますね。僕の会社は長崎県佐世保市にあるんですが、「なぜ東京に出てこないんですか?」としょっちゅう質問される。僕が関わっているのは通信販売の会社で、東京と地方の差をネガティブに捉えていない自分にしてみれば、反対に、「なぜ東京に出て行かなきゃいけないんだろう」と思うわけです。ほとんど無意識に人の口にのぼるこの「格差」という言葉に引っぱられて、あらぬ劣等感を感じる必要なんてどこにもないと思うんですけれどね。
一方、国家間の格差に目を向けると、これにはもの凄いものがあります。戦争から七〇年経って日本はずいぶん裕福な国になりましたが、世界にはまだ考えられないような貧困に喘いでいる国があるわけです。比較的進んだ国とそうでない国の差自体が、さまざまな犯罪や戦争の原因になっついることは事実ですから、これは人間が知恵を出し合って世界をどうしても変えていかなければならない。極端な貧困は克服して、人間の尊厳を守らなくてはいけないでしょう。では全ての国が際限のない物質的な繁栄を求めていけば格差が縮まって万事解決か、といえばもちろんそう単純ではなく、人間が便利さや物質的な豊かさだけを追求してゆけば地球環境は一体どうなるんだろうかという懸念が出てきます。長く安定した平和な世界をどう作り出すかが今、緊急の課題だと僕は思います。
個人の貧困を克服しよう、それを作り出している仕組みに挑戦しよう、あるいはもう少し大きな国家間の格差の問題を解決しよう-どういう課題であってもそれを良い方へ変えようと思ったら、やはり最初の一歩は自分の心からではないでしょうか。悲観せず、まず自分の置かれているところで精進すればきっと一歩は道が開ける。一歩進んだらそこでまた努力する、その繰り返しです。困難な道ではありますが、やってやれないことは絶対にない。僕はそう信じています。