「芥川賞の値段(抜書) - 出久根達郎」講談社 たとえばの楽しみ から

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芥川賞の値段(抜書) - 出久根達郎講談社 たとえばの楽しみ から

第二十六回は堀田義衛『廣場の孤獨』(十万円)、二十七回は該当なし、二十八回は昭和二十七年度だが、松本清張五味康祐という芥川賞らしからぬ異色の作家が受賞する。
松本の受賞作は、「或る『小倉日記』伝」だが、この作品は最初直木賞の候補に推されていた。永井龍男が、内容から芥川賞だ、と判断し、そちらに回したのである。坂口安吾が松本の構成力とたくましい筆力に、推理小説を書く要素を備えている、と予見し、買った。安吾の読みは的中し、数年後、清張推理ブームが起こる。
五味は、その頃リルケに心酔し、『マルテの手記』のような小説を書いては、出版社に持ちこんでいた。いつも没である。生まれて初めて時代小説を書いてみた。それが受賞作となった「喪神」である。当時ひどいこと貧乏であった。夫婦で間借りしていた部屋の縁の下に、野良犬がすみついた。五味は雑種の野良を可愛がっていたが、骨一本のエサを買ってやることもできないある日、道の向うから五味の姿を見つけた野良は、尾を振り、まっしぐら走ってきて、車にはねられた。犬の死骸を胸に抱いて、五味は大声で泣いた。「この時ほど、自分の貧乏を呪ったことはない。」「手前ひとりの誇り高き文学精神とは一体何だ、と思った。」とのちに回想している。「この瞬間から私は変ったように思う。」と書いている。
五味の受賞が新聞で報じられた時、まっさきにお祝いに駈けつけてきたのは、質屋の親父だった。親父は一升びんを届けてくれた。五味はそれを野良公の墓前に供えた。そうして、「えらいことになってしもうた、どないしよう」と墓に語りかけた。
正賞の時計は、まもなく質入したという。お祝いしてくれた質屋に預けたのであろう。
五味の「喪神」を強く推したのも安吾であった。そういえば五味も清張も、持ち味が安吾に似ている。清張の受賞作を収録した『戦国権謀』が十五万円、五味のそれを入れた『秘剣』が五千円。五味の初版本が安いのは、『秘剣』が新書判で見ばえがしないせいであり、また結構売れた本だからである。