「「エサ」と酒 - 中島らも」ほろ酔い天国 から

 

「「エサ」と酒 - 中島らも」ほろ酔い天国 から

 

内田百閒という頑固じいさんがいて、この人の随筆を僕はヒマがあるとよく読む。
実に文句の多いじいさんで、初見は嫌な感じなのだが、何度も読み重ねるうちにそのワガママ言い放題の奥から愛らしい子供っぽさとゆるぎない硬骨がほの見えてくる。何となく「近所のエラくてうっとうしいけれど可愛いじいさん」みたいな親近感を感じて、つい読んでしまうのだ。
この人はかなりの酒飲みで、砂場の三畳ほどの閑居にひっそくしている時分にも知人を呼んでは何度も大宴会を催している。
鍋の中に入れるのに馬肉と鹿肉をあつらえて「馬鹿鍋」という酔狂をやらかしたりしたのは有名な話だ。
百閒はかなりの大食で、壮時には旅客船のレストランで、フルコースを食べ終えた後にライスカレーを注文してまわりの人を赤面させたりしたようだ。
その大食の百閒の随筆の中で面白いのは「そば」の話だ。
百閒は起きると朝にビスケットを少しつまむ程度で、昼には近所のそば屋から夏なら「もり」、冬なら「かけ」を出前させる。
これが毎日のことなのだが、本人の言によると、食べたか食べないかわからないただの虫おさえで、あとはただひたすら夕刻の酒食を楽しみに待ちわびている。
ここで面白いのは百閒の展開する「エサ・うまい論」である。
百閒は鳥を飼っているのだが、昼の食をそばと決めるまでは、鳥がエサをついばむ姿を見ては、「毎日同じものを食うて気の毒なことだ」と哀れんでいた。
ところが昼食をそばと決めてからは、そのそばに慣れて、十二時なら十二時きっかりにそばが届けられるのが待ち遠しくてしかたがなくなってくる。五分でも遅れるとイライラして出前を叱ったりする。
百閒の取っていたのは、本人も明言しているが何の変哲もない町の駄そばで、うまくもまずくもないといった代物だ。
ところが所用があって外出したりしたときに担当の人から「この近所ににも神田の“藪”がありますから」などと言われても、百閒はそれを辞して自宅へ帰るのだ。そしていつもの駄そばをすすって納得する。鳥はは決して不幸ではない。エサというのはうまいもので、違うエサをとっかえひっかえ与えられるほうがよっぽど迷惑なのだ。

美味珍味を求めて放浪するというのは、本人によほどの覚悟がない限りむなしい営為だ。
酒に関してもそれは同じで、最近よく各地の地酒を品評会のように並べた店に出会う。
利き酒大会みたいにその一品一品を味わっては、結局正体不明に泥酔してしまっている男女をよく見かける。
そういう飲み方というのはどちらかというと、お酒に対して失礼な飲み方だ。
毎日つき合っていると、「エサ」である駄そばが徐々にうまくなってきて、しまいにはよそのそばを受けつけなくなる。それと同じくらいつき合わないと地酒のうまさはわからない。

僕は日本酒が好きで、夏でもヒヤでやる。
ありがたいのは住んでいるのが関西エリアで、灘五郷の銘酒の地元であることだ。どんな料理屋にいっても、「これは」と言われる銘酒を味わうことができる。たしかにどれも馥郁[ふくいく]とした味わいだ。あるレベルを超えたものには個性のちがいがあるだけで、「甲・乙」の差というものがないことがよくわかる。
ところが僕が家で飲むのは「丙」の酒である。「水のよいにうまい美酒」ではなくて、「水っぽい酒」だ。
あまりにうま過ぎてまったりとした酒では嫌味を感じてしまう。
それは「立派な人」と付き合うと疲れる感じによく似ている気もする。