「口語文 - 山本夏彦」文春文庫 完本文語文 から

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「口語文 - 山本夏彦」文春文庫 完本文語文 から

大正デモクラシーをひと口で言えといわれて、「口語文」と答えたことがある。ひと口で言うのだから無数の答えがありそうだが、そんなにはない。十ぐらいである。親不孝、恋愛至上主義核家族、猫なで声と指折り数えるとみな書いたことばかりだと気がつく。
本当は何が言いたいのかと自分に問うと、さかのぼって戦前という時代を言いたいのである。戦後全盛を極めたものの萌芽はすべて戦前にあった。ウーマンリブまであった、平塚らいてう(雷鳥)にあったといってもたいていの若者は知らない。
むかし長谷川如是閑は今の新聞記者は十年前二十年前のことを知らないと言ったが、新聞記者でさえ知らないのだから並のOLはもっと知らない。古いことは悪い、新しいことはいいという教育をうけてなん十年になるから、つい戦前のことを知ろうとしない。みんな戦後はじまったことだと思っている。
いわんや核家族は戦前はなかったときめている。けれども東京は出かせぎ人の都会で、笈[きゆう]を負うて上京した明治大正の書生(学生のこと)は、卒業すると東京に居ついて勤人になった。やがて所帯を持った。すなわち核家族である。
平塚らいてうの「青鞜」はウーマンリブの権化で、明治四十四年の創刊である。男女の仲は恋愛至上主義といって、恋愛をこの上ないものにした。
今年は昭和六十八年に当る。戦争が終って四十八年たった勘定だから、戦前を知らないものばかりになった。けれどもいま全盛のものはみんな昔あったのだから、今を糸口にさかのぼれば難なく戦前を知ることができるのである。
口語文の元祖は二葉亭四迷と山田美妙だといわれている。明治二十年二葉亭の「浮雲」からはじまって、明治二十九年には広津柳浪尾崎紅葉も試みている。この十年間は文語文から口語文に移る過渡期である。紅葉を頭にいただく硯友社[けんゆうしや]は西鶴近松から出発して、「今戸心中」(柳浪)「多情多恨」(紅葉)など口語の小説に至ったのである。
いっぽう樋口一葉の「たけくらべ」は明治二十八年の作である。一葉は文語文に終始して口語文は書いていない。試みに一編書いたが成功しなかった。その短編は活字になりながら全集にも収められていない。一葉があと十年生きたら口語文の小説を書かなければならない。一葉の口語文なんか私は読みたくない。全集にはいってないところを見ると全集選者たちも読者も読みたくなかったのだろう。
自然主義の代表作はみな口語文である。天下は口語文の天下になったのである。ただ手紙にはなおながく候文という文語文の一種が用いられていた。
昭和二十年まで帝国陸海軍は片カナまじりの文語文を用いた。吉田満少尉の「戦艦大和ノ最期」は文語体である。筆をとれば自然に文語体になったと吉田は述懐しているが、この文語は以前の文語とは違う。口語文にかこまれて育ったものの文語文である。
もう一つ新体詩は小説に遅れること十年、明治四十年代に口語自由詩に転じた。転じ出したらあっというまに全部口語自由詩になってしまった。それまで島崎藤村に代表される新体詩は、満都の子女に愛誦[あいしよう]されたのである。基本に七五調があったからである。口語自由詩になって以来詩は全くといっていいほど読まれなくなった。どうせ読まれないならと自然に難解になった。
犀星(室生)朔太郎(萩原)の両人は白秋(北原)の弟子である。文語で育って口語に転じた詩人たちである。彼らにはいまだに読者がある。文語育ちとは少年時代学校でも家庭でも読むものみな文語だった時代に育ったものの謂[いい]である。
明治十二年生れの荷風漢詩文で育った。明治末年までの女は、筆をとれば「候べく候」と書くものと思っていたから、恋の手紙もおのずと候文だったと荷風は回顧している。
大正に生れ昭和に育った私は、昭和十年ごろ試みに候文の手紙を書いてみたものの、その不自然に気がついてたちまちやめた。谷崎潤一郎は昭和九年現在の候文は、「候ところ」「候まま」「候あいだ」などと続けすぎる、候は句点(「。」)である、以前の候文は「候」と言い切ってこんなには続けなかった、これは口語文の悪影響だと言っている。
明治二十五年生れの芥川龍之介は文語育ちのしんがりのひとりである。大正五年海軍機関学校の教官だったころ、弔辞を頼まれて書いている。弔辞はむろん文語中の文語である。春夫、犀星、朔太郎もこの前後の生れで文語育ちである。
荷風は最後まで口語に抵抗した人である。春夫は文語の美しさを捨てかねて、詩はもとより序文、跋文[ばつぶん]にも好んで文語を用いた。
口語文ならかゆいところに手が届くと思ったのが運のつきだったのである。言葉は電光のように通じるもので、説いて委曲をつくせるものではない。言葉は少し不自由なほうがいい、過ぎたるは及ばないのである。
何より口語文には文語文にある「美」がない。したがって詩の言葉にならない。文語には千年以上の歴史がある。背後に和漢の古典がある。百年や二百年では口語は詩の言葉にはならない。たぶん永遠にならないだろう。
荷風散人や谷崎がいまだに読まれるのは、口語のふりをした文語だからである。荷風漢詩文の、谷崎は和文の伝統を伝えている。荷風はボオドレエルの「死のよろこび」の一節を次のように訳した。

われ遺書を厭[い]み墳墓をにくむ。死して徒[いたずら]に人の涙を請はんより、生きながらにして吾[われ]寧[むし]ろ鴉[からす]をまねぎ、汚れたる脊髄の端々[はしばし]をついばましめん

ボオドレエルを口語に訳したものはほかに数々あるが、荷風訳に及ぶものはないのではないか。
私は文語にかえれといっているのではない。そんなこと出来はしない。私たちは勇んで古典を捨てたのである。別れたのである。ただ世界ひろしといえども誦[しよう]すべき詩歌を持たぬ国民があろうかて、私はただ嘆ずるのである。