「「水曜日は狐の書評」の書評抜書 其の一 - 〈狐〉こと山村修」水曜日は狐の書評ちくま文庫から

 

「「水曜日は狐の書評」の書評抜書 其の一 - 〈狐〉こと山村修」水曜日は狐の書評ちくま文庫から

樋口一葉の名作を実感的に読む方法
樋口一葉著『にごりえたけくらべ』(ワイド版岩波文庫)

樋口一葉には「奇跡の一年」とも呼ばれる絶頂期がある。明治二十八年から二十九年にかけての日々だ。この短い期間に、一葉は近代文学史上に残る作品を集中的に発表した。本書はその時期の代表的な二編「にごりえ」と「たけくらべ」とを収める一冊である。
ちょうど先日、東京国立近代美術館フィルムセンターで、伝説的な名画「樋口一葉」(並木鏡太郎監督、昭和十四年)が上映されたばかりだ。映画は一葉の伝記に、「にごりえ」「たけくらべ」などの小説から拾ったエピソードを織り込んだ構成で、樋口一葉に扮する山田五十鈴(当時二十二歳)の堂々たる演技ぶりには圧倒される。
もちろん映画そのものを楽しめば、それで十分なのだが、じつは一葉の小説を読むとき、この映画こそは強力無比な〈注釈〉の役を果たしてくれるのだ。
たとえば吉原周辺の町を舞台にした「たけくらべ」には、吉原の大見世・角海老について、「角海老が時計の響きもそぞろ哀れの音[ね]を伝へるやうに成れば.....」とある。この時計とは何か。映画を見ると、最上階に時計台のある、唐風のいかにも異様でキッチュな建物が出てくる。この映像によって、角海老に代表される悪場所のエネルギーのようなものが、肌身に感じられるのだ。
そして吉原のぐるりを取り巻いた「お歯ぐろ溝[どぶ]」にかかる「★ハネ橋」も映像を見て初めて、こんな作りだったのかと分かる。この映画に心酔した内藤誠(映画監督)が、その著書『シネマと銃口と怪人』(平凡社ライブラリー)に「はね橋を人がきりきりと上下させる光景など、現実に、いや、映画のなかでさえ、誰も見たことがなかったので、一瞬『ホーッ』と感歎の吐息をもらした」と書いている。
映画では「たけくらべ」の美登利役の高峰秀子(当時十五歳)が、芸者となるべく★ハネ橋を渡っていった。その姿を思い出しながら本書を読んだ。

 

②平凡人の平凡な言葉に痛切な美しさ
チェーホフ著/小野理子訳『ワーニャおじさん』(岩波文庫)

築地小劇場このかた、日本でチェーホフ劇に出演してきた女優といえば東山千栄子である。彼女がかつてチェーホフ作品について書いたことがあった。「ほとんど事件らしい事件もないうちに、演劇の底を流れているものは次第に発達し展開して行って、ついにそれが前面におし出されて来たとき、私たちははじめてその強く抜き差しならない人生のドラマに驚くのです」
的確な評だと思う。東山千栄子チェーホフの没後まもなくモスクワに渡り、それから八年間「帝政ロシアが没落するまで」その国に暮らした人である。チェーホフ劇の背景を実地に見知っている。
チェーホフの傑作戯曲の一つ、この『ワーニャおじさん』でもまた事件らしい事件はさっぱり起こらない。田舎屋敷に、退職した老教授とその若くて美貌の妻が帰ってくる。それが人々の間に思いがけない波紋を広げるという展開だが、波紋はいずれも大事にはならず、せいぜい若妻に片思いをしたワーニャが、老教授に発砲して失敗することくらいがクライマックスなのだ。
ところが、善良で、小心で、平凡で、退屈で、美しくもない人物たちがクライマックスのあと、みるみる輝き出す。ラスト、疲れ果て、絶望しつつも生きることを決意した娘ソーニャが語るセリフこそは、叙情の極みを行く絶唱である。
「ね、ワーニャおじさん、生きていきましょう。.......寿命が尽きたら、おとなしく死んで、あの世に行き、『私たちは苦しみました、泣きました。ほんとうにつろうございました』と申しあげましょう。......あたしたち、ゆっくり休みましょうね!......すぐに.....、休めるわ.....。ゆっくり、休みましょう!」
この「ゆっくり休みましょう」というリフレインが痛切に美しい。平凡な人の平凡な言葉に、チェーホフはまさしく「強く抜き差しならないドラマ」を脈打たせていると読めた。

 

天下御免の荒涼たる笑いがひびきわたる
野坂昭如著『野坂昭如リターンズ2 エロトピア』(国書刊行会)

この一冊を待っていた。野坂昭如による、伝説的といってもよい性学大全である。一九六〇年代末から七〇年代の初めにかけて週刊誌に書かれた。のちに単行本にも文庫本にもなったが、いまやいずれも絶版。それがうれしや、長編選集「野坂昭如リターンズ」の第二巻として復活した。
セックスをめぐる言説は、腐りやすい。七〇年代以降を考えても、〈性〉について、フェミニズム関連も含めておびただしい量の文章が書かれているはずだが、いま読むに足るものがどれだけ残っているだろう。野坂昭如の長編エッセ-『エロトピア』は、もう何ともはや、天下御免の荒涼たる笑いに満ちみちていて、歳月を経ても、こうして見事によみがえる。
野坂自身が「ぼくはあえてカッコわるいセックスをめざし、性の荒野にふみこむ決意なのであります」と書いているように、ここに語られる〈性〉にカッコよさはみじんもない。なにしろ作家がここ一番と力をこめて書きつけるのは、哀しや男の手すさびであり、不能の楽しみ(?)であり、自虐的に夢みる屍姦である。
たとえば手すさびの体位(作家は「態位」と書くべきだと主張する)につき、「六法」「玉とり」「手やぐら」「臥竜」「竹とんぼ」「仏壇がえし」「とも喰い」「浜時雨」など、十三種をことこまかに説明した項を読まれよ。
「浜時雨」は、ヒザ立ちし、体を後ろにそらせ、膝行[しつこう]しつつ行うのだそうである。それをなぜ「浜時雨」というのか不明だが、作家のコメントにいわく、「こんな形で、襖に向けて突進しつつある時に、ガラリと襖開けて誰か入ってきたら、お互いびっくり仰天するやろうねえ」。そりゃあびっくりするでしょう。
笑ったあと、どこか索漠たる風が吹いてくる。野坂の小説に吹くのと同じ、時代と生温く馴れあうことを嫌う、乾き切った北風である。