「批評と悪口についてー三島由紀夫」角川文庫“不道徳教育講座”から

今日は一寸目先を変えて、文学論みたいなことをやるとしましょう。尤もいずれ不道徳には関係のあることです。
中村光夫氏が「悪口」という面白い随想を書いています。
「ひとの悪口を云ふとき、大がいの者はその対象にたいして悪意をもつています。しかし批評家は悪口を云つても、その対象に悪意を持つていないことが多い、といふより持つてはならないので、だからこそ彼の悪口は客観性をもち、世間に通用するのです。」
と中村氏は言う。さらに氏は、
「これまで悪意をもつてひとの悪口を云つたことは一度もない。反対に何かの点で尊敬を感じられない人は喧嘩の相手にしたことはないので、その選択はいままで誤つていなかつたといふ気さへします。」
と言いつつ、この随想の後段で、又々ものすごい、そっけない悪口を、中村真一郎氏の小説に向って、並べている。おしまいまで読んで、前半の悪口論と、後半の悪口の見本との、現金な組合せに私は全く愉快になり、笑ってしまいました。中村夫氏という人は私の最も尊敬する友人だが、又実にすごい人ではある。さてこの随想には、氏のいかにも論理的な強い古武士的性格があらわれていて、氏を知るほどの人で、この随想に書かれていることを疑う者はないでしょうが、私が人の作品を批判するときには、とてもこんな心境には立ち至れない。私はあくまで市井戸の悪口屋らしく、時には感情をまじえて人の悪口を言い、又、人に悪口を書かれると、
「ああ、これは別に俺の作品が本当に悪いからじゃなくて、あの批評家め、俺に何か含んでいるところがあるんだな」
などと、自己弁護をしつつ、いろいろと気を廻します。
そこで思うのですが、氏が世間普通の悪口と批評家の悪口とを、はっきり別のものと見なして、そこに批評家の倫理を確立していることはよくわかるのですが、私の如き、批評される立場になったり、批評する立場になったりするヌエ的人間から見ると、そこがどうもスッキリと行かず、世間普通の悪口と批評家の悪口、どこがちがうのだ、とつい言いたくなる。世間にだって、「悪口は鰻飯より旨い」などと言うときのような、何ら悪意を含まぬスポーツ的悪口もあるのだから、批評家にだって、悪意を含んだ悪口は、あって然るべしだ、と思うのです。一例がサント・ブゥウのようなヤキモチやきの批評家は、当代の大作家には誰にでもヤキモチをやき、「現代作家の肖像」第二巻で、彼はバルザックに対する非難を、いかにも素朴な賞賛のように見せかけて書きましたが、人のいいバルザックは、はじめのうちは大いに喜んでいた。そのうち、何度も同じ讃辞がくりかえされるので、ついに言葉の裏の悪意に気づいたバルザックは、
「今に見ろ、俺はあいつの体にペンで穴をあけてやるから」
と叫んだそうです。こんなサント・ブゥウの陰険なやり方に比べると、中村光夫氏のは正々堂々たる悪口で、卑劣なところは少しもありませんが、人間にはいろいろの種類があるので、同じ批評家の中にも、サント・ブゥウ的人物もいれば、中村光夫的人物もいる。だから一概に、批評家の悪口には悪意がないとも言えないのです。
人間の好悪は、概してまず外見にとらわれるので、いかに作品本位で批評しようと思ったって、同じ東京に住んでいる以上、いやでも顔を合わせることが出て来る。いや、一度も会ったことのない人物だって、写真でおなじみというのが普通である。そうすれば、或る小説の著者が、チョビ髭を生やしているということは、いやでもわかってしまう。そして彼の小説を読んで、たとえば何でもない一行、
「彼は女のやわらかい、甘い、薔薇のような乳房に、酩酊を感じて....」
などという一行を読んでも、その一行が文学的に良い悪いということを別にしても、「あのチョビ髭でこんなことを書くか」と思っただけで、もう胸クソが悪くなる、ということはありうるのです。
そしてさらに厳密に言うと、作家の風貌と作品とはどこかで奇妙に結びついているもので、尋常一様の結びつき方はしないのが例ですが、一度結びついたら最後、どんなことをしても人の頭から離れない。
チョビ髭作家の例にしても、彼のチョビ髭と「薔薇の乳房」という表現とは、磁石みたいに忽ちひっついてしまい、はじめは、
「あんなチョビ髭を生やしてやがるくせに、こんな甘い文章を書く」
と思ったのが、次には、
「あんなチョビ髭を生やしてやがるから、こんな甘い文章を書くんだ」
としか思えなくなってしまう。
人間というのは困ったもので、外見と性格とがうまく一致して一分の隙もない奴はむしろめずらしく、外見と中身との間には、多少ともソゴのあるのが普通です。悪口や批評はそこを狙うので、芸術作品にはこのソゴが端的に、拡大されて現れて来るので、ますます狙いやすくなる。作品というものは、小説や絵や音楽ばかりでなく、人間そのものを作品にすることもできるのであって、世間にはそういう人間もいます。我儘勝手で、弱点だらけで、始末に負えなくても、とにかくその人の外見と性格が完全に一致していて、文句のつけようがなく、手のつけようがない。それで一生通ってしまう。こういう人の一生は、いわば芸術作品の傑作と同じことです。こんなのには、いくら悪口を言ってみてもつまらない。
悪口の的になるのは、(悪口屋自身が意識していなくても、)必ず何らかのソゴであります。外見と中身とのソゴ、思想と文体とのソゴ、社会と個我とのソゴ、作品の意図と結果とのソゴであります。そしてソゴというやつは必ず漫画の材料になりうるもので、悪口と笑いには密接な関係があります。もちろんその笑いには、弱い鼠が強い猫を笑うような笑いもあれば、強い猫が弱い鼠を笑うような笑いもありますが......
ここにもし、ネクタイをわざわざ首のうしろに結んで、背広の背中に垂らして歩いている男がいたとします。人はみんな彼を見て笑います。
「あいつは何てキチガイだろ」
「イヤ、可哀想に、田舎者でネクタイの結び方も知らないんだよ」
これが世間の第一の無邪気な悪口で、ほとんど悪意はなく笑いのほうが優先している。
「イヤ、知らないでやってるわけはないよ。ありゃあ、わざと反俗的な格好をし、世間を嘲笑しているつもりなんだ。肉を切らして、骨を切る、というヤツさ。それにしても何て浅薄な反俗精神かね」これが第二の悪口。意図をまず理解し、次に意図の実現の方法を笑って、そこを批評する。多少の悪意も含まれている。
「あいつの売り込み精神の俗っぽさには全くイヤになる。何てイヤな面だ。ヘドが出そうだ。あんな奴は早くくたばりゃいいんだ」
これが第三の悪口。こうなったら、悪意ばかりで、笑いは一かけらもありません。
ー かくて、あらゆるソゴに対して、人はまず笑いで対応し、次に批評で対応し、次に悪意で対応する。批評は笑いと悪意の両方にまたがり、したがってソゴの性質を十分に味わい理解する余裕がある。それは又、自分の笑いと悪意を分析することでもあって、「悪意から出た親切心」というものに充ちています。
さて、もしこの逆さネクタイの男が精神病院の中を歩いていたら、.....そこには何らのソゴもなく、従って笑いもなく悪口や批評の対象にもならないでしょう。