「葬式考ー谷川俊太郎」新潮文庫“ひとり暮らし”から

「葬式考ー谷川俊太郎新潮文庫“ひとり暮らし”から
 

葬式に出るのはいやではない。結婚式に行くよりずっといい。近ごろはおもしろい弔辞が少なくなったが、それでも結婚式の祝辞に比べれば、弔辞のほうがまだしも退屈しないですむ。弔辞ではおめでたいことを言わずにすむからだろう。ほとんど出たことがないから分からないが、想像するに結婚式というものには、否応なしに未来がついてまわる。出席者の目の前の若いふたりの未来を思いめぐらさずにはいられない。
この土地値上がりの時代にどんな部屋に住めるのだろうとか、子どもをもつのだとしたらこれから先、何年も学費に苦労するだろうし、登校拒否や非行やらも心配しなければならないだろうとか、夫婦仲が悪くなって離婚とでもいうことになったら、ふたりともさぞ苦しむだろうとか、老後の計画は大丈夫だろうかとか、要するにおめでたいふたりを祝福したいと思えば思うほど、心配の種はつきないのである。
未来が明るくないことを知りながら、未来はバラ色であるかのような顔をして冷えた伊勢エビをつっつき、ほほえみながら祝福のことばを述べるのだから、結婚式に出るのはつらい経験に違いない。その点、葬式には未来というものがないから何も心配する必要がない。未来を思って暗い気持ちになることもない。未来を思うとしてもせいぜい死者の行ったと思われる死後の世界というものは、いったいどんな所なのだろうと妄想するくらいのもので、これにははかばかしい答がないから、すこぶる気楽である。
ただ残念なのは、近ごろ線香のあの奥ゆかしい香りのしない葬式が多くなったことである。線香の香りがないということは、あの眠気をさそう快い読経の声もないということで、そのふたつが欠けると葬式の魅力は半減する。近ごろの葬式はやたらに白っぽい。まるで気取ったフランス料理屋にでも行ったようである。だいたい白を背景に故人の大きな写真が飾られていて、その前に白い布のかけられた横長のテーブルが置かれている。まわりは白い菊であふれていて、参列者は焼香の代わりにやはり白い菊を一本ずつ故人の写真に手向けるという段取りになっている。
寺での葬式だと色にも金とか赤とか緑とかもっとケバケバしいのが多くて、もしかするとあの世には本当に極楽という所があって、死者はもう未来を思い煩うこともなく、そこでのうのうしているのであろうと思うことも出来るが白ずくめでおまけにBGMに西洋人の作曲した鎮魂曲などが流れているとそういうわけにはいかない。無宗教だと言っていたのは嘘で、故人は本当は隠れキリシタンだったんじゃないかなどとあらぬ疑いが頭をもたげる。
それに白い菊を手向けるのもいいのだか、そのときいったい誰にお辞儀をしたものかと迷う。目の前に故人の写真があるから、お辞儀をすればどうしても故人と目が合ってしまう。結局故人にむかってさよならのお辞儀をすることになるのだが、こっちしては神か仏かは知らないが、故人てはない誰かに故人をよろしくお願いしますよと頭を下げたい気持ちなので、どうも心細いのである。
白っぽい斎場は病院の病室みたいに清潔で明るいから、こっちもなんだか病院に見舞いに来たような気分になる。線香の煙ですすけた薄暗い内陣の奥に、半分目をつむった金ピカの仏さまがいてくれると、死も不可知で奥深いものに見えてくるのだが、スポットライトに故人の写真が浮かび上がっているのを見ると、ついつい故人を身近に感じてしまって、弔辞でも埒のない思い出話などしがちだ。
つまり死者を出来るだけ死から遠ざけようとするのが近ごろの葬式の流儀だから、いつか私もそちらに参って一献酌み交わしたいと思うが、今すぐにというわけにはいかないのでしばらくお待ち願いたいなどという甘ったれた弔辞まで飛び出したりする、いくら気楽だと言っても、そこまで気楽に構えられては死に対して失礼というものではないだろうか。
未来があるのは結婚式だけで沢山だ、葬式にまで未来を持ち込まれてはあの世とこの世の区別がどこかへ行ってしまう。せめて葬式のときくらいはこの世の憂さを忘れたいものだと思うのである。