「都市情景 - 谷崎潤一郎」 岩波文庫 日本近代随筆選から

「都市情景 - 谷崎潤一郎」 岩波文庫 日本近代随筆選から
 
私は東京の日本橋に生れた人間で、三十歳になるまでは下町を離れたことはなかった。その時分、近県の田舎へ避暑とか避寒とかに出かけることもないではなかったが、十日もすると直に東京が恋しくなって舞い戻って来たものである。当時の停車場ほ元の汐留の新橋駅で、汽車から降りると、「ああ東京はやっぱりいいなあ」と、ほっとしながらあの駅頭の石段に立って、賑やかな広場の人通りを見渡す。そして駅前から電車に乗ると、乗り合いの女の風俗が先ず第一に眼を喜ばせ、都会に帰って来たという感じを、しみじみ味わわせるのであった。今から思えば、あのころの電車は何というゆっくりしたものだったろう。森鴎外先生が団子坂のお宅から陸軍省へ通勤されるのに、 電車のな かで書見や調べ 物をされるのを、日課のようにしておられたということだが、このごろのラッシュ・アワーの喧嘩のような光景を見ると、もうそんなことは一と昔の夢となった。電車が恐ろしく雑沓するようになったのは、世界戦争に引き続いての好景気時代からで、その以前には悠々閑々たるものだった。だから美しい装いをした女たちを乗り合い客の中に見ることは珍しくなく、その花やかな色彩を楽しむだけの余裕もあった。
四、五年前、永井荷風氏が何年ぶりかで京都に遊ばれて、閑寂な町の情趣に深く心を動かされたことを、当時の中央公論に書いておられたが、その後荷風氏にお目に懸った折、私はそういったことがあった。「嘗てわたしも十年ぶりで京都へ行ったとき、矢張あなたと同じように感じたことがあるのです。そうしてその時に考えたのは、今の京都が自分の心を動かすのは、十年前の東京を想い出させるからだ。もう東京では滅びてしまって、われわれ自身が既に忘れていたところの古い習慣や風俗が、京都へ行くと未だに保存されていて、はからずもふっと眼につくことがある。ああ、そうだった。昔はこんなこともあったけと、幼年時代のおぼろげな記憶が不意にわれわれに戻っ て来る。つ まり京都というところは日本の旧式な都会の俤を、何処よりも長く伝えているからではないでしょうか」 - たしか荷風氏も私の説を肯定されたようであったが、無論京都には京都独特の美観もあれば魅力もあって、単に古いということばかりが誇りではないとしてからが、最も強くわれわれを惹きつけるのはその点だと思う。われわれは七つ八つ時分、表通りに面した方は櫺子(れんじ)格子になっていて、這入り口から裏口の方へ真っ直ぐに土間がつづいている家に育った。冬はその格子の中ガラスの障子を嵌め、夏は障子を取り払って簾をかける。格子の外にはチラリホラリと長閑な往来の人通りが見える。夕方になると蝙蝠が飛び交い、あれは何という虫であったか、小さな綿のようなものを着けた虫がや って来て、子供たちは「おおわた、こわた・・・・」何とかと節を附けて唄いながら、それを追い廻したものであった。夜になれば家の中の明りが、鮮やかな格子の影を地に印した。凍てた霜夜の、新内流しや冴えた下駄の音、 ・・・・・新内流しは兎に角として、あの下駄の音はどうして近ごろ聞こえなくなってしまったのだろう。今でも地面は凍てるであろうし、下駄は使われているのであるが。・・・・・・そして私は、あの下駄の音を聞きながら乳母に抱かれてすやすやと眠る、父や母が留守の晩などあの下駄がお父ッつぁんかな、あれがおッ母さんかなと、寝床の中でじっと耳を澄ましながら。・・・・・
たしか去年の夏であったか、上京の五番町にあるすっぽん屋の太市へ行ったとき、ゆうぐ れのことで、二階の床に筵を敷いて、涼を納(い)れながら酒を飲んだが、この「床」は東京の物干し台、もしくは火の見櫓にあたるものであろう。私はその折、こういうところが矢張京都だなと思った。この都会では先斗町木屋町はいうまでもなく、普通の町家でも夏の夕は床の涼みが附き物になっているのである。入梅が来れば草実を焚き、障子の代りに葭簀を嵌め、とうむしろやゆとんを敷くというような情趣が、今でも多く見られるのである。私は妙になつかしい気がして、そこの床から中庭の方を見おろすと、庭はそんなに広くもなく、土塀の向うに窺(のぞ)いている隣家の屋根と樹木の梢が、恰も空へ貼り付けたようにひっそりとしている。隣家には人がいないのかしら? - と、そう思う程しん しんと静かで、カタリという音も聞えて来ない。そうだ、日本橋の家も昔はこんな工合だった、ちょうどこのくらいの中庭があって、塀の向うに隣の家の屋根と梢が見えていた。そうして昼も森閑として、人がいそうなけはいもなかった。「梅が香や隣は荻生惣右衛門」 - 其角と徂徠とが隣合わせで住んでいたという、茅場町の薬師の地内(じない)から程遠くないところにも、それから賑やかな米屋町(こめやまち)にも引き移ったが、その静かさはこの上京の静かさと同じであった。謎のように侘しく立っている塀の向うから、たまに聞えてくるものは琴の音だけであっただろう。或る時蠣殻町の伯父の家の二階から、塀の向うをうかがうと、隣の家にも中庭があって、十五、六になる美しい娘が、縁はなに 近い柱に靠(もた)れながら長煙管で煙草を吸っていた。それは「お鈴(すう)ちゃん」という近所で評判の娘であったが、・・・・・・・私の記憶はそんなおぼろげなことにまで遠く遡って行くのであった。
支那の蘇州へ行くと、彼処(あそこ)は人口三、四十万の繁華な都会でありながら、一度都門の外に出れば、場内の車馬の物音が少しも聞えない。湟(こう)を隔ててその毅然たる城壁を仰ぎ見る時、この囲いの中にそんな殷賑(いんしん)な市街が隠れていようとは、とても考えられないくらい静かである。私はその時も子供のころの「謎のような壁の向う」を想い出さずにはいられなかった。
私が自分の生れ故郷である東京が嫌いになったのは、そういう静かさがなくなったからだとい うのではない。根岸の里にほととぎすを聞き、目黒の不動で筍飯をたべた昔が、徒らに恋しいというのでもない。けれども今の東京にはその古いものに代るべき新しい情趣がないように思う。総じて都会というものは、余り大きくなり過ぎると、雑然として纏まった感じがなくなってしまう。道頓堀の芝居見物、心斎橋筋のそぞろ歩き - といったような中心点が、今の東京にはないのである。そしてそういう大阪も、「大大阪」となるにつれて、だんだん東京に似て来るのであろう。一と年北京の鐘楼へ登って打ち続く甍を見渡した時、あの大都会の家々が、こんもりとした木立に掩(おお)われて殆ど見えないくらいなのに、さすがは大国の旧都であることを感じたが、東洋におけるああいう典雅な街の趣は、 支那へ行かなければ分らないようになるであろう。
明るくて、賑やかで、 - 空は青々と晴れていて、往来にはきらびやかな人通りがありながら、しかも絵のように静かな街 - そういう街を私は好む。広さでいえば京都か神戸ぐらいなところが一番いい。私はあまり旅行家ではないから、委しいことは知らないのだが、日本のうちでは畿内から中国地方へかけて、そういう街が多いような気がするのである。