徘徊8月30日水曜日、市ヶ谷あたり。

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なぜ、市ヶ谷の左内坂からにしたかと云うと、この坂が世の中に出ての最初の坂道だったからである。
昭和46年4月に税関に採用され、現在の防衛省、(当時はまだ駐屯地でその前年に三島由紀夫氏が自決された)の裏側あった研修所で9ヶ月間の研修を受けた。
当時の採用方針が“地方の純朴な少年を採る”であったようで、180余名のうち自分を除いてあとは純朴なことになっていた少年たちであった。
入所して夏が過ぎる頃まで土日と云えども純朴な少年たちを街に解き放つことはなく、班単位で東京見物に出掛けたが、左内坂(写真)を降りたり登ったりして市ヶ谷駅をよく利用した。
もう50年近く昔のことだから、研修所の建物は建て替えられたものと思ってきたが、その頃のまま残っていて(写真)、グランドも一部は残っているようだった。

左内坂はもう一つの人生の一大事のときも登り降りした。
40代前半にJICAの専門家としてフィリピンのマニラに派遣されたが、派遣に先立つ研修を同じく防衛省裏にある研修施設で受けた。
坂のはじまりは、登り坂であった頃の左内坂しかなかった。