「地図『日和下駄』第四 - 永井荷風」日本の名随筆別巻46地図から

 

「地図『日和下駄』第四 - 永井荷風」日本の名随筆別巻46地図から

蝙蝠傘を杖に日和下駄を曳摺りながら市中を歩む時、私はいつも携帯に便なる嘉永板[かえいばん]の江戸切図を懐中[ふところ]にする。これは何も今時出版する石版摺[せきばんずり]の東京地図を嫌つて殊更[ことさら]昔の木版絵図を慕ふといふわけではない。日和下駄曳摺りながら歩いて行く現代の街路をば、歩きながら昔の地図に引合せて行けば、おのづから労せずして江戸の昔と東京の今とを目[ま]のあたり比較対照することができるからである。
例へば牛込弁天町辺[へん]は道路取りひろげの為め近頃全く面目を異[こと]にしたが、其の裏通なる小流[こながれ]に今猶其の名を残す根来橋といふ名前なぞから、之[これ]を江戸切図に引合せて、私は歩きながら此辺に根来組同心の屋敷のあつた事を知る時なぞ、歴史上の大発見でもしたやうに訳もなく無暗と嬉しくなるのである。かやうな馬鹿々々しい無益な興味の外に、又一ツ昔の地図の便利な事は雪月花の名所や神社仏閣の位置をば殊更目につき易いやうに色摺にしてあるのみならず時としては案内記のやうにこの処より何々まで凡[およそ]幾町植木屋多しなぞと説明が加えてあることである。凡そ東京の地図にして精密正確なるは陸地測量部の地図に優るものはなからう。然し是を眺めても何等の興味も起らず、風景の如何をも更に想像する事が出来ない。土地の高低を示す蚰蜒[げじげじ]の足のやうな符号と、何万分の一とか何とか云ふ尺度[ものさし]一点張の正確と精密とは却つて当意即妙の自由を失ひ見る人をして唯煩雑の思をなさしめるばかりである。見よ不正確なる江戸絵図は上野の如く桜咲く処には自由に桜の花を描き柳原の如く柳ある処には柳の糸を添へのみならず、又飛鳥山より遠く日光筑波の山々を見ることを得れば直にこれを雲の彼方に描示[ゑがきしめ]すが如く、臨機応変に全く相反せる製図の方式態度を併用して興味津々よく平易にその要領を会得せしめてゐる。この点によりして不正確なる江戸絵図は正確なる東京の新地図よりも遥に直感的また印象的の方法に出でたものと見ねばならぬ。現代西洋風の制度は政治法律教育万般のこと尽[ことごと]く此に等しい。現代の裁判制度は東京地図の煩雑なるが如く大岡越前守の眼力は江戸地図の如し。更に語を換ゆれば東京地図は幾何学の如く江戸絵図は模様のやうである。
江戸絵図はかくて日和下駄蝙蝠傘と共に私の散歩には是非ともなくてはならぬ伴侶となつた。江戸絵図によつて見知らぬ裏町を歩み行けば身は自ら其の時代にあるが如き心持となる。実際現在の東京中には何処[いずこ]に行くとも心より恍惚として去るに忍びざる程美麗な若しくは荘厳な風景建築に出遇はぬかぎり、いろいろと無理な方法を取り此によつてワズカ[難漢字]に幾分の興味を作出さねばならぬ。然らざれば如何に無聊[ぶれう]なる閑人[かんじん]の身にも現今の東京は全く散歩に堪へざる都会ではないか。西洋文学から得た輸入思想を便りにして、例えば銀座の角のライオンを以て直ちに巴里のカツフエーに擬し帝国劇場を以てオペラになぞらへるなぞ、無暗矢鱈[むやみやたら]に東京中を西洋風に空想するのも或人には或は有益にして興味ある方法かも知れぬ。然し現代日本の西洋式偽文明が森永の西洋菓子の如く女優のダンスの如く無味拙劣なるものと感じられる輩[ともがら]に対しては、東京なる都会の興味は勢[いきほひ]尚古的[しようこてき]退歩的たらざるを得ない。吾々は市ヶ谷外濠の埋立工事を見て、いかにするとも将来の新美観を予測することの出来ない限り、愛惜の情は自ら人をしてこの堀に藕花[ぐうくわ]の馥郁[ふくいく]とした昔を思はしめる。 
私は四谷見附を出てから迂曲した外濠の堤の、丁度その曲角になつてゐる本村町の坂上に立つて、次第に地勢の低くなり行くにつれ、目のとどくかぎり市ヶ谷から牛込を経て遠く小石川の高台を望む景色をば東京中での最も美しい景色の中に数へてゐる。市ヶ谷八幡の桜早くも散つて、茶の木稲荷の茶の木の生垣伸び茂る頃、壕端つたひの道すがら、行手に望む牛込小石川の高台かけて、緑滴る新樹の梢に、ゆらゆらと初夏の雲涼し気に動く空を見る時、私は何のいはれもなく山の手のこの辺[あたり]を中心にして江戸の狂歌が勃興した天明時代の風流を思起すのである。狂歌才蔵集夏の巻に云はずや、
首歌 馬場金埒
花はみなおろし大根[だいこ]となりぬらし鰹に似たる今朝の横雲
新樹 紀躬鹿
花の山にほひ袋の春過ぎて青葉ばかりとなりにけるかな
更衣 地形方丸
夏たちて布子の綿はぬきながらたもとにのこる春のはな帋[がみ]
江戸の東京と改称せられた当時の東京絵図も亦江戸絵図と同じく、わが日和下駄の散歩に興味を添へしむるものである。
私は小石川なる父の家の門札[もんふだ]に、第四大区第何小区何町何番地と所書[ところがき]のしてあつたのを記憶してゐる。東京府が今日の如く十五区六郡に区畫されたのは、丁度私の生れた頃のこと。それまでは十一の大区に分たれてゐたのである。私は柳北の随筆、芳幾[よしいく]の錦絵、清親[きよちか]の名所絵、此に東京絵図を合せ照して屡々[しばしば]明治初年の混沌たる新時代の感覚に触るることを楽しみとする。
市中を散歩しつつ此の年代の東京絵図を開き見れば諸処の重立つた大名屋敷は大抵海陸軍の御用地となつてゐる。下谷佐竹の屋敷は調練場となり、市ヶ谷と戸塚村なる尾州侯の藩邸、小石川なる水戸の館第[くわんてい]も今日吾々の見る如く陸軍の所轄となり名高き庭苑も追々に踏み荒されて行く。鉄砲洲なる白河楽翁公[しらかはらくをうこう]が御下屋敷の浴恩園[よくおんゑん]は小石川の後楽園と並んで江戸名苑の一つに数へられたものであるが、今は海軍省の軍人ががやがや寄集つて酒を呑む倶楽部のやうなものになつてしまつた。江戸絵図より目を転じて東京絵図を見れば誰しも仏蘭西革命史を読むが如き感に打たれるであらう。われわれはそれよりも時としては更に深い感慨に沈められると云つてもよい。何故[なにゆえ]なれば、仏蘭西の市民は政変の為めに軽々しくヴェルサイユの如き大なる国民的美術的建築物を壊[こぼ]ちはしなかつたからである。現代官僚の教育は常に孔孟の教を尊び中孝仁義の道を説くと聞いてゐるが、お茶の水を過る度々「仰高[ぎやうかう]」の二字を掲げた大成殿[たいせいでん]の表門を仰げば、瓦は落ちたるままに雑草も除かず風雨の破壊するがままに任せてある。而[しか]して世人の更に之を怪しまざるが如きに至つては、吾等は唯唖然たるより外はない。