「われらの就職難時代 - 野坂昭如」中公文庫 風狂の思想 から

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「われらの就職難時代 - 野坂昭如」中公文庫 風狂の思想 から

さまざまな劣等感が骨がらみになっているけれども、その中に学士様と、大学文学部卒業で、しかも就職している人に対するコンプレックスが強い。小学校以外すべて中退だから、大学に四年間在籍して、きちんと卒業した方には、とにかく一目置くようなところがあって、大学闘争に首をつっこんだのも、あるいはこのあらわれかも知れぬ。たしかに、東大は安田講堂に足ふみ入れた時、へーえこれがそうなのかと、中に籠城する全共闘諸士もさることながら、しみじみ建物を見まわし、ぼくは東大受験に失敗しているから、なおさら感慨が深かった。まあ、小生の意識なんて、こんなところなのであります。
ぼくたちの本来卒業するべき昭和二十九年前後は、戦後最も不景気な時代であって、文学部など出ても、全く就職は考えられない。現在では、マスコミ関係に、あまり高望みさえしなければ、たいていなんとかひっかかるらしいけれども、早稲田で、この年に、大新聞に入った男はたしか二人のはずで、しかも一人は政経学部の学生、ぼくたちは、奇蹟の如く思い、いったいそいつはどんな顔をしているのだろうと、わざわざ顔を見にいったくらい。民放もまだ細々したものだし、後藤明生の話によると、彼は広告代理店博報堂を、神田にあるからと、古本屋か額縁屋に思ったというほど、その存在は知られていず、週刊誌ブームの気配もさらにうかがえぬ時代だった。
大学三年を終って、ぼくの修得した単位は十八単位、うち六単位が体育、とても卒論提出の資格はないし、あきらめていて、まあアルバイトで食うことくらいはできるから、のんべんだらりと暮し、だが、なまじ卒業可能な連中は必死であった。父の関係で田中角栄氏を存じ上げていたので、当時、市ヶ谷にあったその事務所を、友人同道して訪れたことがある。友人のためにコネのはしくれでも頼んでみようという心づもり、ところが角栄氏は、こっちが文学部のしかも仏文だというと、天を仰いで嘆息し「フランス語ねえ、では外交官試験でも受けてみたらどうですか」とおっしゃった。友人は単位こそ員数合っていても、ほとんど良か可なのであり、仏文といっても、せいぜい自信をもっていえるのはジュテームくらいのもの、氏は親切に、外務省情文二課に勤めていた田付たつ子さんあて紹介状を書いてくれたのだが、とてもそれ以上たずねる勇気はなかった。婦人雑誌に、やはり父のコネで友人を紹介したことがある。眼鏡をかけた怖い女性が応対にあらわれ、「うちでは新人は公募しませんが、アルバイトの形でしばらく勤めてみて、よかったら社員に採用しましょう」といって下さる。天にものぼる喜びで、さていちおうのテストに出されたのが、丹羽文雄氏の原稿を筆写しろというもの、後年それもごく最近きいたのだが、丹羽氏の原稿は、余り達筆すぎて、なれた記者でないと読めないのだそうだ。こっちはそんなことを知らないから、その原稿用紙どうながめたって、まず十字置きくらいに「これは多分、満という字ではないだろうか」「いや婦ではあるまいか」おぼろげにわかるくらいで、まったくアウト。その時に、小説家というものはなにやらものすごいものだと、しみじみ感心し、さらにこれをすらすら読んでみせる婦人記者に驚嘆し、友人はすっぱり出版社をあきらめた。
西北荘の山賊でいうと、一人は秋田県花輪の郷里へもどり、鹿角時報というローカル紙に勤め、それでも就職したことを誇るように、週に一度出すそのタブロイド型の新聞を、ぼくに送って来たが、経営者一人に記者は彼だけで、論説から笑い話まで引き受けるらしかった。一人は山陰へもどり、兄のコネで市役所水道課へ勤め、一人は岩手県水沢の公民館臨時雇い、一人は中国地方担当の鋸セールスマン、一人はぼくと同じく卒業できなくて東京へ残った。山賊だけではなくて、仏文のトップは、NHKに勤めたものの、惚れた女とはなれるのがいやで、つまりすぐ北海道へ転勤が決まったから、辞めてしまい、やはりよくできるのが当時のラジオ東京へ入ったのが、ただ一人の例外。ほとんどがきいたこともない会社にようやく拾われるか、田舎にもどり、野末陳平は、ストリップのコメディアンだったし、残りは就職できぬまま金融会社のセールスマン、バーテンダー見習い、看板描き、競馬場の整理係など、不安定な日を送る、彼等は実に陰鬱な眼をしていたと思う。学生の頃はまだしもその身分に安住していられたが、一日明けて学士様となってしまえば、いまさら郷里へもどっても、近所の人の手前あそんでるわけにもいかず、たいてい母が内緒で送ってくれるささやかな金をたよりに、千点五円というような麻雀、パチンコで日を過ごし、しかもお先真っ暗、就職した男をたよって、昼飯くらいおごらせても、別れた後のみじめな想い考えれは、二度とたずねる気はせず、学生時代の放蕩無頼がいかに甘ったれたものだったかよくわかるのだ。
ぼくは、卒業しない、というよりこれから先何年かかったって不可能なこととわかっていたから、大学卒の資格にたよって職を探すなど考えず、後に復学したが三十年つまり五年生を終えたところで、さっさとお寺に入ってしまった。つまり、少年の頃に読んだ講談本によると、木下藤吉郎とか、岩見重太郎など、手におえない餓鬼はよく寺にあずけられている。寺にさえいけば三食くらい食えるのではないかと考えたのであって、それくらいに切羽つまっていた。餓死するか、とててもない犯罪、いや、それはできないだろうが、カッパライ、コソ泥、万引きくらいしかねなくて、自分が怖くなる。新潟市郊外にある禅寺に逃げこみ、半年ほどはここで庭の草むしり、広い廊下のふき掃除、風呂炊きの修業をして、この三つは今でもぼくの特技になっている。お経は本格的にならうまでにはいたらなかった。 
昭和三十年という年は、吉田自由党内閣が倒れた年だし、坂口安吾がなくなり、石原慎太郎が登場し、戦後は色あせ、現在の昭和元禄の芽生えの見えはじめた年である。阿賀野川の堤防に、砂利を拾いにいき、はるか上越国境の山肌に残る雪をながめながら、大八車にスコップで小石をほうりこみながら、やれやれ、これで俺は坊主になってしまうのかと、別に悲しくはないし、みじめに思う気もない。事実、和尚は、もう一年辛抱したら得度させ、さらに二年修業を積めば、末寺の一つに預けてもいい、といっていたのだ。
こんな具合だったから、大学文学部を出て、現在就職している方をみると、事情の好転したことはよく知っているのだが、どうしても尊敬してしまう。よく入れたものだ、よほど秀才だったにちがいない、恥をかくといけないから気をつけようと、あまりむずかしい話はしないように心がけるのである。