「文庫解説と怪説 - 椎名誠」文春文庫 ガス燈酒場によろしく から

「文庫解説と怪説 - 椎名誠」文春文庫 ガス燈酒場によろしく から
 
粗製乱造、薄利多売路線をいくモノカキなので、やたらたくさん本がでてしまう。単行本がでれば、後を追って文庫本がでる。ことしは六月までに単行本、文庫本をあわせて十二冊もでてしまった。月刊シーナマコトだ。だからこの年のぼくの発刊はもうおしまいでいいや、思っていたら後半に単行本二冊、文庫本四冊がでることになっていた。
まあこの不況下、ありがたいことであります。トモグイしないでみんな元気に世の中に出て大きくなって帰ってくるんだよ。
いや、帰ってきてはいけないのだ。返品というコトだからね。みんな二度と帰ってくるんじゃないよ。家に入れないからね。
文庫を出すときに悩むのは「文庫版のためのあとがき」を書くのと「解説」を誰に書いてもらうか、である。「あとがき」といっても、たいてい三年以上も前に書いた本だからいまさら感想を書け、と言われても困る。
「とくにィ・・・」とか「べつにィ・・・」などと言っていると怒られるので何とか適当に書くが、自分でいうのもナンだがおざなりの域をでない。時代はどんどん進み、記憶はどんどん薄れているからねえ。
それ以上に困るのが「解説」である。
ぼくはどうも百五十冊以上の文庫を出しているらしいから「解説」を書いてくれそうな人にはもうあらかた頼んでしまった。
文庫の「解説」は本当にその本に感銘していればいいが、しばしば「おつきあい」の場合もあるから気をつかう。それからまた以前にぼくの本に「解説」を書いてもらった人からその人の文庫の「解説」を頼まれると断るわけにはいかない。いわゆるひとつの「お返し」というやつである。
むかしはミズテンで、これは! という人に解説を頼み、断られるとややこちらのココロにキズがついた。たがいに編集者レベルでの交渉と決裂であったかも知れないが、それの事実を知ってしまうと「そうかあの人はオレを断ったのか。じゃあこっちはもうあの人の本なんか読んでやんねえ」ココロの狭いぼくはついそう思ってしまう。こっちも多忙すぎて断ることがあるから、そのへんのやりとり感覚はなんともいえないけれど。
文庫の「解説」はたいてい面倒くさい。一冊の本の解説を書くとなると、本気でやるなら一度読んだ本を「読書」というレベルではなく、今度は「分析・冷静な解読」という、もう二、三歩踏み込んだ思考と姿勢で読みかえさなければならないからだ。
その解釈が作者の意図するところと大きくズレていたりすると「なんだあの人、こんな程度の理解しかできないのか」などと思ったり、思われたりして、それによって作者と解説者の関係にヒビが入ったりする。ヒトの作品に介入するということはまことに気のぬけない、よしあしが表裏一体のデリケートな内実を沢山もっている。
このページの「赤マント」シリーズなどはもうじき連載1000回になるが、だいたい一年に一冊、まとまって単行本になる。元本(単行本)は春に二十一冊目が出て文庫は十七冊目がでた。この「解説」は面倒なのでイラストを書いているコンビの沢野ひとしにずーっと頼んでいる。沢野には「どうせおまえには分析力なんかないんだから何を書いてもいいよ。自分の日記でもいいからな」といってあるが毎回けっこうまともに書いているのやればできるんだ。こういう話は友達のあいだ柄だからできる。
ぼくも最近二冊の文庫の「解説」を書いた。アスペクトから出る傑作SF、リチャード・モーガンの『ウォークン・フュアリーズ』と哲学者、中島義道さんの『醜い日本の私』(新潮社)だ。どちらも作品に心酔したのでやらせてもらった。いずれも四百字詰で十枚ぐらいだった。参考のため中島さんの別の作品『偏食的生き方のすすめ』(新潮文庫)を読んでいたら、氏のある文庫で“高名なる作家”に「解説」を依頼したのだが、ぜんぜん本の内容を理解していないので中島さんが断った、という話が出ていてびっくりした。もう書きあがっている原稿なのである。
そんなときぼくなんかだと「まっいいか。いろんな見方があるだろうからな」とたちまち自分を誤魔化してしまうのだが、常に本音で語る中島さんの面目躍如たる話で不思議な感動を覚えた。
理想的な文庫の「解説」とはどういうものなのだろうか。ストーリーのダイジェストだけだったりというのがよくある。ひどいのはミステリーの種明かしスレスレなんてのがあって「解説」が本文全部をぶちこわしている。いちばん望ましいのは、読みおわった読者にむけたその作品および作者の意図の客観的な分析だろう。文芸評論家の「解説」がいちばん無難なのはそのへんの呼吸を心得ているからだ。内輪話、という「解説」も明治、大正の文学だとなかなか面白いのがあって「解説」が本文より面白かったりする。
講談社から出ている『IN★POCKET』を見ると、五月に77の出版社から文庫が出ていて、その中にもジャンルごとに独立した文庫があって全部で148文庫ある。そのなかには『死神姫の再婚』とか『女子高生メイドと穴奴隷女教師』などというどんな内容かわからない本などもいっぱいあってこういう本の「解説」を急に読みたくなってしまった。「解説」という場を借りて、これから出る解説者の本の宣伝をたっぷりしているのを以前見たことがある。かと思うと、どう見ても「本体」の批判でしかない「怪説」もある。それはそれで面白いのだが意味がわからない。中島義道力が足りないのだ。過去の文庫を調べてみると、川端康成の『伊豆の踊子』は三島由紀夫が解説を書いているし、 柴田錬三郎眠狂四郎無頼控』は遠藤周作坂口安吾『白痴』は福田恒存などといったふうに、作者も解説者も錚々たる顔ぶれ。「解説」の名作も多いのだ。