「デジタル化で失ったもの ー 池澤夏樹」文春文庫’10年版ベスト・エッセイ集から

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「デジタル化で失ったもの ー 池澤夏樹」文春文庫’10年版ベスト・エッセイ集から

電子ブックといふもの、これまでいくつか市場に出たけれども、手元に置いて使ってみたいと思ったことはなかった。
薄い板のような形で、既存の本の内容がデジタルなテクストとして収められている。本のように持ち歩いて、本のように読める。そういう原理はわかるのだが、使い勝手がいま一つという印象だった。
去年あたりから噂を聞いていたアマゾンの「キンドルKindle」という商品が日本でも買えるようになった。評判はよしあしあるが、これは使えそうという気がして入手してみた。
ほぼ文芸雑誌と同じ大きさで、厚みは文芸雑誌の二百ページ分くらい。目方は二百九十グラムだから、薄い単行本一冊というところか。
それ自体が携帯電話のための電波網で販売元につながっていて、買ったテクストは自動的に届く(今のところ日本語の本はない)。同じものをパソコン経由で買うこともできる。画面は鮮明で読みやすいし、好みに合わせて活字の大きさを変えるという本にはできない芸当もできる。
いちばんありがたいのはこれ一つに単行本千五百冊分が収まるというところだ。本というもの、ともかく重くてかさばる。仮に一冊が三百グラムとしても千五百冊では五百キロ近くになる。厚みを二センチとすれば、長さにして三十メートルの本棚が要る。それが一冊分に収まるとすれば、これは僥倖だ。
実際に手に取って使ってみた結果はほぼ予想どおりのものだった、使い勝手はまあ我慢できる範囲。
不満があるとすればコンテンツの不備。新刊のベストセラーを次々に読む人には便利だろうが、近過去が手薄なのだ。ぼくが編集している『世界文学全集』に選んだ三十六作品について言えば、キンドルで入手できるのは五点のみ。これは改善が期待できるし、著作権の切れた古典についてはまずまずの充実ぶりと言える。シェイクスピア全集が二ドル九十九セントだ!

ここ二十年ほどの間に我々はデジタル化の恩恵をたっぷりと味わってきた。それは紙やテープやレコード盤など、重みのある媒体からの解放だった。デジタルという無重力の空間を得たおかげで、我々が接し得るデータやテクストの量は飛躍的に増した。
全三十巻の百科事典で一つの項目を引く手間を思い出してみれば、インターネットに重さがないことの利点がわかるだろう。百科事典の改訂は五年に一度もむずかしいけれど、インターネットならば毎日でもできる。
自分のことで言えば、ぼくはワープロで書いた小説で芥川賞を受けた最初の作家である。それ以来、メモや手紙はともかく、原稿を手で書いたことはない。今から見ればまだ原始的で高価だったワープロに切り替えたいちばんの理由は腱鞘炎だった。当時は翻訳などを生業としていたのだが、ともかく痛くて仕事にならない。キーボードを相手に両方の指を平等に使うことで、腱鞘炎は消えた。

デジタル化で失ったものは何か?
肉体感である。
ペンを手で持って字を書くという行為はキーボードを打つのよりずっと多く肉体に依存している。手の筋肉を操って書いた字の形が目から脳へフィードバックされ、次の字の形に影響を与える。うまい下手はともかく、自分の書体というものができる。思えばわが腱鞘炎は肉体の反逆だった。
読む方にしても紙でできた本には容積と重さがあり、紙の質感と匂いがある。それら全体が内容に結びついて記憶に残る。本を手で持つこと、ページをめくることで肉体は読む行為に参加している。
デジタルは情報を情報のみに還元する夢の技術のはずだった。物質から解放された情報はずっとアクセスしやすくなり、日常への提供量が増えた。われわれはどうでもいいことを実に正確に知ることができるようになった。その分だけ互いに気が抜けなくなった。いわば情報インフレーションだ。

京都・建仁寺の法堂の天井に二頭の龍が描かれている。小泉淳作の作品だが、彼はこれを北海道中札内村の元小学校の体育館で制作した。そのさまを小泉淳作美術館(中札内美術村)でビデオで見た。
彼は立って描くのだ。広大な紙を床一面に広げ、長い長い筆をまるで箒か何かのようにしっかり両手に持って描いている。その足元からほんの少しずつ龍が生まれる。その紙と筆鋒の絡み合いに息を呑んだ。足を広げて立った姿勢が絵の大きさとダイナミズムを裏打ちしている。
墨や絵具や紙を相手に絵を描くこと、数十名の演奏者からなるオーケストラを相手に指揮すること、それに言うまでもなくスポーツのすべて、演劇、料理、旅行......まだ文化的な営みの多くは肉体の参与を求めている。
マラルメの詩に「肉体は悲しい、ああ!私はすべての本を読んでしまった」というのがあった。デジタルでない方法ですべての本を読んだ上で、肉体の悲しみに到達したと思う。
その後は、また旅に出ようか。