「欲とバランス - 藤堂明保」角川文庫 女へんの漢字 から

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「欲とバランス - 藤堂明保」角川文庫 女へんの漢字 から
 

私の子どものころは、夏の夕方になると、毎晩のように縁台をもち出して、夕涼みをしたものだ。
いつのまにか、夕食をすませた近所のおじさん方もよってくる。他愛もない大人たちの話を聞くともなしに聞いている。そのうちに、お向かいの孝ちゃんや一軒おいた右隣りの久子ちゃんもやってくる。
今日のように、一酸化炭素を吹きちらして通りすぎる車もいないから、夜の空気はすがすがしい。ヒザ小僧をかかえて見上げると、うっすらと白い銀河が斜めに大空を横切っている。銀河系のほかにまだまだ数知れぬ宇宙があるのだそうだ。この広い大空のどこかに、宇宙人がいるかもしれない、というような空想は、昔から子どもたちの脳裏をかすめたものだ。
宇宙人がいるとしたら、どんな形をしているだろうか。ソビエト生物学者は、こんなことを述べている。「中枢神経は、どこかに集中したほうがよいから、やはり頭の上部にあるだろう。運動をするには、左右が対称であったほうがつごうがよいから、やはり手や足は(それがなん本かは別として)、左右均斉のとれた形でくっついているだろう」
なんのことはない、もし宇宙人がいるとしても、それは我われ人間とたいして違わぬ形をしているわけだ。といえば、未来小説や漫画をみても、そう奇想天外な宇宙人が描かれているわけではない。どんな動物にせよ、とにかくそこは頭だ、ボディだ、足だという程度に、人間になぞらえた命名ができるほど、普遍的な「人」の類型というものが厳に存在している。
生物の体はもちろん、とりわけ人間の肉体というのは、宇宙の環境に適合するように、鍛えに鍛えてできあがった精巧な「体系」であると考えることができる。おまけにそこにはオス~メス、男~女というふしぎな区別がある。それはまさに「同」の中の「異」であって、それが奇妙にからみあって複雑な統一ができあがる。これぐらいふしぎなことがあるだろうか。
中国の漢方医学は、おそらく中国文明の発祥とともに起こったものだろう。それが体系化されて『黄帝素問』『黄帝霊枢』という二つの基本的な書物としてまとまったのは、たぶん紀元前三世紀ごろのことだろう(その原型は、紀元前四世紀、戦国時代の末期には、もう存在したと考えられる)。
さて漢方では、人間の肉体はバランスのとれた小宇宙であると考える。食物の栄養からとられたエキスが、有形の血となり無形のエネルギー、すなわち「気」となって全身を回っている。それを「栄衛の気」と名づけ、個体防衛の役をはたしている。人体が外界の急変や不摂生によってバランスを失うと、「衛気は解散して」体調がくずれてしまうのである。とくに、男と女とでは、肉体がバランスを保って生存するという原理は同じであっても、体調そのもののリズムが違う。女性は七の倍数、男性は八の倍数を区切りとして、体調が変化してくる。たとえば女性は7×2=14歳で月経が始まり、7×7=49歳で月経があがる。これに対して男性のほうは、8×2=16歳で正常 な射精能力が備わり(すこし遅いかな)、8×8=64歳でその機能が終わる(これも今日では早すぎる)。そこで理想的な生き方とは、つぎのようであるという。
上古の人、その道を知る者は、陰陽に法(いたが)い、術数に和す。飲食に節あり、起居に常あり。妄(みだり)に作労せず。故によく形(肉体)と神(精神)と、ともに尽きて、その天年を終わり。百歳を度(わた)りてすなわち去る(『黄帝素問』)
つまり無理やストレスがいちばん悪いのだ。「嗜欲を世俗の間に適せしめ、恚嗔(けいてん)(ストレス)の心なし、・・・・外には形(肉体)を労せず、内には思想の患いなし」というのが、何よりの健康法である。
私のように、「コンチキショウ、この大学め」と腹をたてたり。「安保フンサイ」とデモに出かけたりするのは、どうも落第らしい。だいいち「思想の患いなし」などといっておれない性分では、健康にはほど遠いわけだ。しかし、たいへんありがたいことを述べてくれた個所は、「嗜欲を世俗の間に適せしめ」とある部分である。つまり妙な禁欲はよろしくない、適度に発散するがよろしいぞ、という意味であろう・
ちなみにこの書には、セックスについても細ごまとした注意が述べられている。人間の体調は、四季の変化につれて微妙に対応しようとする。春は力づよく発育する時だし、夏は伸びきった時だ。秋は引きしめる時だし、冬はじっと収蔵する季節である。春は大いにハデにやるがよろしい。秋はやや控えめにおさえておきたい。夏はうっかり放散しすぎると取り返しがつかぬことになる。冬はじっと温存しておくことだ。とりわけ寒風にさらされて戻った男が、暖かい部屋にはいって酒を飲み、酔いにまかせて寝台の上にシケこむのがいちばん体によろしくない - と、ていねいな注釈までついている。近ごろはやりの性生活の手引きより、はるかに実感にあふれている。やはり 歴史の重みというのだろうか。
ところで、人間の肉体が精巧きわまる体系であって、一分の狂いもなく内外の変化に対応できるならばけっこうには違いないが、それでは電気時計のように味気ないだろう。とにかく人間には「欲」というものがある。「男女飲食は、人の大欲ここに存す」と中国の古典にあるとおり、セックスと食慾とは、だれでも免れがたい「大欲」である。その欲がはいりこんでくるから、時おり時計の歯車が狂ってくる。狂えば人体のプラスとマイナスとの精巧なバランスが破れる。このくい違いのことを、漢方医学では「邪」と称する。「それ邪の生ずるや、あるいは陰(うち)より生じ、あるいは陽(そと)より生ず。その陽(そと)より生ずるものは、これを風雨寒暑より得るなり。その陰(う ち)より生ずるものは、これを飲食・居処・陰陽(セックス)・喜怒より得るなり」(『黄帝素門』)というとおりである。
外界から人体を襲うショックは、気温・気圧の急変などの自然現象であるけれども、内部から生じるアンバランスは、飲食・居処(すまい)とセックスと、それに感情のもつれとであって、まったく人間の生活そのものからくるひずみ(邪)なのである。漢方では、その「ひずみ」を生じないよう、つまり「邪」が介入するすきを与えないようにと、丹念に摂生の仕方を説くわけだが、ホントのことをいえば、「欲」あってこその人生ではないか。たまに不調和があってこそ、雑音が乱れ散って、世の中が面白くなるのではないか。
「欲とバランス」という、漢方の根本問題の一つをかたづけて、さてこれから内臓についてのさまざまなことばを解説していくことにしよう。