「断筆宣言 ー 筒井康隆」光文社 断筆宣言への軌跡 から

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「断筆宣言 ー 筒井康隆」光文社 断筆宣言への軌跡 から
 

あたしゃ キれました。プッツンします。

差別表現への糾弾がますます過激になる今の社会の風潮は、小説の自由にとって極めて不都合になってきた。現在までに何らかの差別糾弾を受けた作家が五十人にも及ぶという状態は極めて異常であると言える。この風潮が進行することによって、例えば小説に美人が登場しても差別につながるという常識が一般化した社会を想像することもでき、そんな想像を現実よりも先にしてしまうのが「炭坑のカナリヤ」としての作家であろう。
もしも社会が創作の自由を侵害しはじめた時には、右顧左眄(うこさべん)したみっともない作品を書くより、いつでも筆を折るという覚悟を作家は常から持たねばならないのではないか。文学史を顧みてそう思い続けてきた のが、今回、二十九年も前に書いた短編小説「無人警察」が高校の教科書に採択され、日本癲癇協会から差別であるとして糾弾されたことを直接のきっかけとして、筆を断つことにした。約束したところには義理を果すが、今後は小説、エッセイなど、新たな執筆依頼は断っていく。連載もやめることとし、手はじめにこの「笑犬樓よりの眺望」も今回で終らせていただこう。この連載、今回で百二回めであり、休載した月もあるから約十年、続けてきたことになる。岡留安則さん、神林広恵さん、ありがとう。十年間、ほんとうにお世話になりました。
次いで「文藝」の「文藝時評」も、まだ一年しかやっていないが、次回で終了し、この件の文学的側面についてはそちらに書かせて戴く。これを読んで「文藝」 の吉田がのけぞることだろうが、そういうわけです。吉田君ご免。
さて、日本癲癇協会の糾弾は一見、表現の自由とは無関係の、またはその中の極く些細な問題、つまり制度内の良識たるべき「教科書」に「無人警察」が載ることにのみ的を絞っているように思える。つまりそれは「癲癇の生徒やその家庭のことも考えよ」という、小説の内容とは無縁の、小学生でも中学生でもない、時にはわれわれの世代よりよくものがわかっていたりする「高校生」を子供扱いした一般的な「良識」を根拠にしているからである。このことばは非常に恐ろしい。なぜ恐ろしいかというとそれはまさに一般的な良識を根拠にしているからであり、これは例えば「家族のことも考えて、これ以上アブナいことは書かないでください 」という妻や家族のことば、つまりは「内部からの圧力」同様の恐ろしさがあり、やはり反制度の立場に立つ作家の強力な敵と言える。そして、制度というものはこうした一般的な良識に乗じて、どうしても制度内にとりこむことのできない小説の言語全体にまで圧力を加えようとする傾向にあるのだ。たとえは協会は、「返答次第では当該作品所載の文庫、全集の回収も求める」と、高圧的につけ加えたりもした。だが、こうした一般的、制度的な「良識」に従わなければならなくなった時、小説の機能の大部分は失われてしまうのである。
前回ここへ全文を掲載した「覚書」に対して協会側は、「詭弁を弄し」ているなどと批判している。制度は、本来反制度の立場に立って発言する作家を「ちょっと変わったことを言う人」「みんなと違うことを言う人」としてマスコミ人種の中に分類し、ややゲテモノ気味の便利屋として扱い、「ちょっと変わった」コメントを求め、時には教科書に載せるなどして制度内にとりこもうとするが、その意見がどうしようもなく制度に反していた場合は「詭弁を弄している」として退けるのである。
使用してはいけない語句が次第に増え、差別ということばさえ「人権問題」と言い換えられることによって「差別」という日本語すら使用できなくなりそうな傾向にある。連載をした某紙では「狂」という字が使 えなかった。「狂人」「発狂」はむろんのこと、「芸術的狂気」も駄目だった。どうもケモノの王を意味する「狂」の字そのものがいけないらしいのだが、これによって「酔狂」「頓狂」「風狂」「狂気」「狂瀾」といった魅力ある日本語がとうとう使えなかった。「狂詩曲」や「狂言」はどうなるのだろうか。言語で生きているジャーナリストの誰も、これを由由しきこととは思わないのだろうか。
こうした禁忌に抵触しないかと気にしながら執筆する状態というのは、本来ならばある種の才能を持つ作家にとって、そういう状態そのものを小説にする方向に創作意欲が湧いたりもするのだが、そうした作品が差別に抵触しやすいことは明らかである。
この断筆宣言は、直接には日本癲癇協会などの糾弾への 抗議でもあるが、また、自由に小説が書けない社会的状況や、及び、そうした社会の風潮を是認したり、見て見ぬふりをしたりする気配が、本来なら一般的良識に阿(おもね)ることなく、そもそもは「反制度的でなくてはならない小説」に理解を示すべき筈の多くの言論媒体にまで見られる傾向に対しての抗議でもある。人権問題、差別問題、ことば狩りなどに関するジャーナリズムの思想的脆弱性に対しては、強く疑念を呈しておく。今回は、新聞いずれも日本癲癇協会の声明を機械的に伝えるだけであり、こっちの意見は「覚書」を読んでいながら触らぬ神に祟りなしと見て見ぬ振りの知らん顔、まったく載せてくれなかった。例の永山問題で文芸家協会も脱会しているから、そっちからの支援も期待できず、ひ とりで戦うしかなかった。
そんな事情もあり、「筆を折る」というこの宣言は、新聞などに送りつけて本質からはずれた騒ぎになるのが厭なので、この「噂の真相」に書いたことを前もって二、三のところへ通知するにとどめておく。
これは現在の「ことば狩り」「描写狩り」「表現狩り」が「小説狩り」に移行しつつある傾向を感じ取った一作家のささやかな抗議である。おわりに、強く言う。文化国家の、文化としての小説が、タブーなき言語の聖域となることを望んでやまぬことを。