「断捨離とミニマリズム - 久間十義」ベスト・エッセイ2018から

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「断捨離とミニマリズム - 久間十義」ベスト・エッセイ2018から

整理整頓が苦手だ。だから机の上や床は本や雑誌、用済みの印刷物などでぐちゃぐちゃ。仕方がなく、ときどき一念発起して片付けを始める。昨日はそうやって文芸雑誌を30~40冊ほど燃えるごみに出した。断捨離である。

たんなるごみ出しを、物への執着から離れる「断捨離」などと飾れば何やら誇らしいが、この断捨離、最近はミニマリズムと一緒に語られることが多いらしい。
ミニマリズムは「最小限主義」と訳されたりするが、要は余分なものを取り去り、シンプルな見方、考え方に徹する思考のスタイルを指す。確かに断捨離と通じるものがありそうだ。
とはいえ私はといえば、あまり大声では言えないが、以前この主義を奉じるミニマリストたちの文章を読んだり、ミニマルアートを鑑賞したとき、とても不思議な気分に陥った覚えがある。余計なものは極力削ぎ落とし、ひたすらシンプルに生きる。そんな主張が、どこか無理し過ぎの病気のようにも思われたのだ。
いや、もちろん、私のように人生がムダばかりで出来ているズボラ者から見ると、そのきっぱりとした佇まいは羨ましくないこともない。しかさシンプル過ぎる生き方はやっぱり怖い。

この最小限主義が行き過ぎれば、手当たり次第にモノを捨てるだけで飽き足らず、住居を捨て、会社も辞め、人との付き合いもシャットアウト。ついには妻子を捨てて放浪、なんてことになりかねない。社会性を断ち、世捨て人のように生きるには覚悟がいる。
そういえば昔、ミニマリズムの代表のように喧伝[けんでん]された米国の小説家に、レイモンド・ガーヴァーがいる。日常を淡々と描いて実に味わい深い作家だが、彼が日本で有名になったのは、村上春樹が翻訳したからだ。
ガーヴァーと訳者を混同する訳ではないが、当時、村上春樹はデタッチメント(社会に関わらないこと)を描いた作家。政治の季節を離れた学生たちを中心に読まれて、彼らの心を揺さぶった。
それやこれやを考え合わせると、ミニマリストの「余分を削ぎ落とし、シンプルな生活に徹する」という考え方は、実は政治や諸々の観念から逃れて、ひたすら自己沈潜することと同じなったのか、とも思う。違和感とか厭世感といった言葉が彼らには似合うのだ。
自分に引き寄せて考えれば、これは例えば差別語の禁止やポリティカル・コレクトネス(社会的公正)を強いられたり、息苦しいまでのコンプライアンス(法令順守)に怖[お]じるときの「やり切れなさ」に通じる。
ミニマリズムはこの種の強制や脅迫から解放されたいという、無意識の叫びなのかも知れない。ま、机の整理すらままならぬ私が言うのでは、今一つ説得力のない話てばありますが......。