2/2「日本古典文学の特質ー余情の文学 - ドナルド・キーン」朝日文庫 日本人の質問 から

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2/2「日本古典文学の特質ー余情の文学 - ドナルド・キーン朝日文庫 日本人の質問 から

もう一つの例は、芭蕉の著名な俳句ですが、同じような世界が描かれています。

枯枝に烏のとまりたるや秋の暮

この句には全く色彩のない絵が描かれています。まず、枯枝に色がついていない。烏は黒いですが、黒は色ではありません。「秋の暮」には二つ意味があり得ると思います。一つは、秋の夕暮という意味です。ちょうど、物の色彩が見えなくなる夕暮です。紅葉とか花の色がわからなくなるときは、暗くなりつつある夕暮です。もう一つの意味は晩秋です。秋の季節の終わりごろ。そのときまできれいだった紅葉が散ってしまい、木に葉がなく、烏のような鳥がいても鶯はもちろんいない、こういう時期を指していると思いますが、こういう世界では、やはり空白が非常に大切です。空白も、日本の詩歌の一つの魅力であると同時に、それは、日本のすべての芸術の大きな特徴になっています。
まさに反対の効果をねらっているのは、メキシコの壁画です。メキシコの壁画には空白は全くありません。あれば、何かなかに描き入れないと、メキシコ人は落ちつかないようです。"Nature abhors a vacuum." (自然は空白を嫌う)というような英語のことわざもありますが、日本の自然はどちらかというと空白を喜ぶようです。空白によって初めて自然を理解できるようになると考えられています。
日本の古典文学に限らず日本の詩歌のもう一つの特徴は、『古今集』の序に書いてあるように人の心を種(たね)にするものだということです。人の心を種にする詩歌は外国にもたくさんあります。これは決して珍しくないのですが、外国では、人の心とあまり関係のないような詩歌もたくさんあります。しかし日本の場合は詩歌になりそうもない。一例をあげますと、ローマの詩人のルクレティウスが「物の本質について」という論文を哲学詩の形でまとめました。日本では同じ内容を詩で書こうと思った人はいなかったでしょう。書こうと思ったとすればまず漢文で書いたはずです。本居宣長のような学者は、漢文を嫌っていましたから和文で書いたでしょうが、歌の連作で自分の哲学を説明するというような大 胆な実験はやれなかったと思います。
日本の古典文学の一つの特徴は確かに叙情的であるということです。逆にいうと、叙情的でないような作品は非常に少ない、ということが特徴になります。外国にも叙情的なものもあるけれども、ほかにもいろいろあります。中国人はだいたいどういう状況で漢詩を作ったかというと、自分の心を種にして書くことももちろんありましたが、それよりも、友だちが昇格したとき、昇格を祝うために漢詩を作ったり、親しい友だちが旅に出かけるとき、旅立ちに際して友人を送るような詩を作ったり、友だち同士がどこかの店の二階で酒を飲んでいて、その時の楽しさを、永遠に残すために漢詩を作りました。恋愛を漢詩の形でまとめた中国人は、いることはいますが、きわめて少ない。
漢詩という詩型を利用する日本人は、中国の影響を受けて、心を種にするような漢詩をあまり作らなかった。漢詩と和歌は国語の型が違っていたばかりではなく、内容にも差異がありました。どちらかといえば、日本語で書かれた古典文学は女性的だったといえるでしょう。外国でもそう思われているようです。たとえばコロンビア大学で日本文学を専攻する学生の七割か八割は女学生です。そのかわり、中国文学を専攻する学生は七、八割は男性です。私はここでその現象を分析しようとは思いませんが、一つの事実として伝えておきたいと思います。
日本人は昔から、漢字を男文字とし、仮名は女文字、というふうに区別しましたが、それと関係があるかもしれません。俳句はどちらかというと男性的です。俳句には大和言葉以外に漢語の熟語も相当入っていますが、大和言葉の純粋性を明治時代までずっと守ってきた和歌は、女子的だという感じがします。