「「老」の微笑 - 中村光夫」岩波文庫 日本近代随筆選 から

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「「老」の微笑 - 中村光夫岩波文庫 日本近代随筆選 から
 

島崎藤村の「飯倉だより」の巻頭に、「三人の訪問者」という文章があります。「冬」「貧」「老」の象徴的人物が訪ねてきたという形で、中年から老境に移って行く心境を語ったもので、人生とはこんなものなのかと感心した記憶がありますが、今度読みかえしてみて、やや別の感想をもちました。
「飯倉だより」が刊行されたのは、大正十一年ですが、「三人の訪問者」が書かれたのは大正七年の末か八年の始めのようです。そうすると、彼は数え年で四十七、八歳であったわけで、まだ「老」について語る資格はなかったように思われます。
事実、ここに述べられているのは彼の老境に処する決意のようなもので、それだけに明るく、楽観的とも云えましょう。
「『老』が訪ねて来た。
これこそ私が『貧』以上に醜く考えて居たものだ。不思議にも、『老』までが私に微笑んで見せた。......私の側へ来たものの顔をよく見ると、今迄私が胸に描いて居た老の真実の『老』ではなくて、『萎縮』であったことが分って来た。自分の側へ来たものは、もっと光ったものだ。もっと難有味(ありがたみ)のあるものだ。」
これは「老」ということに或る積極的な意味を認めて、「自分もほんとうに年を取りたい」と希(ねが)う点では、いたずらに「若さ」に執着するより立派ですが、彼自身も云っている通り、「老」の訪問をうけてから、「まだ日の浅い」時期の感想でしょう。
この陰険な訪問者の「微笑」の蔭に何がかくれているか、彼も十年すれば思い知った筈です。
四十八歳の藤村は「老」を切実な問題として考えることはできても、それを感ずることはほとんどなかったのでしょう。彼によれば、「老」につぐ第四の訪問者は「死」だそうですが、この両者のつながりもまだはっきり見てはいなかったようです。
この時期の藤村より、十年余り生きのびて、まず感ずる のは、「老」が、思いがけない苦痛の連続であり、年をとって生きるとは、どこに伏兵がいるかわからない野原を、さぐり足で歩いているようなものだ、ということです。
それは藤村の云うように「光ったもの」「難有味のあるもの」にもたしかになり得るでしょうが、その前にまず心身の衰えとして僕等に襲いかかってきます。
藤村の理想とした「老」を生きられる老人は稀でしょうが、衰えの方は、一定の年齢になれば誰しも否応なく経験します。
まず来るのは、肉体の苦痛です。或る日、身体のどこかが、これという原因もなしに、急に痛くなる、という経験は、五十代の終りごろになると、誰しもするようです。
僕の場合、昨年の夏、歩いているうちに、急に左の膝が痛くな りました。秋から冬になるにつれて、だんだんそれがひどくなり、一時はズボンの中に懐炉を入れたり、軽くびっこをひいたりしました。それが今年になるとほとんど感じないくらいになりましたが、その代り、夏から腰が痛くなりました。
ぎっくろ腰かと思って医者にに行くと、レントゲン写真をとって、そうではないが、骨が老化していると云われました。
こんな風に、身体のどこかに痛いところがあると、気持の方もそれにかまけてしまって、ほかのことは一切うけつけなくなります。ひとがどんなに楽しそうにしていても、それと溶けあうことはできないので、老人が陰気なエゴイストになり、自分のことしか考えられず、ひとに嫌われるのは当然でしょう。
どこも痛くなくとも、寝 つきが悪かったり、早く眼がさめすぎたり、胃がもたれたりして、どことなく身体の調子が悪く、爽快な目覚めなどはほとんどなくなります。
朝、暗いうち、寝床のなかでもじもじしていると、ろくなことを考えません。昔の失敗の記憶をよびさましたり、憎らしい知人の言動を思いだしたり、近いうち自分を待ちうけているに違いない、病気と死の場面を想像したり、これは僕だけのことではなく、同年輩の人と話してみると、大抵同じような経験をしています。
性欲についても、老人になれば性的機能が失われるということは知っていましたが、それが、こういう身体全体の調子の悪さの結果であることには気付かなかったのだから迂闊な話です。
身体から何かが溢れでるような快適な気 分が、おのずから性的な欲望になるような状態には、もう二度とならないでしょうが、そうかといって女性にたいする関心、あるいは観念的な征服欲が減ったわけではないのだから厄介です。
肉体の衰えは必然に精神の衰えを結果します。
これは肉体の痛みなどとちがって、意識するまいとすれば、ある程度は気付かずにすませなすが、記憶が悪くなったことや、度忘れが多くなったことなどはその誤魔化しようのない徴候でしょう。
それについては、最近ほかに書いたので略しますが、そのほか、馴れた仕事の繰返しのほかはひどく億劫になったり、新しい形や考えをうけつけなくなったりするなど、肉体の硬化に精神の硬化が並行する例はいくつも思いあたります。
またこの両者 に関係があると思われるのは、指先や足などが急に「云うことをきかなくなる」ことで、いままでなんでもなく扱っていたものを落したり、歩いていた場所で足をとられたりするのは、自分にも危いし、人にも迷惑をかけることになります。
さきにも書いたように、僕は「老」を一概に否定するものではありません。
「老」の尊重に東洋の知恵があるのではないかとさえ思っています。しかし西洋の文明を輸入して築きあげた今日の我国の社会で、老人の問題は、その孕む矛盾をひとつの鋭い形で示すものでしょう。
西洋からもたらされた衛生学の普及が、我国の人口の著しい増加を結果し、そのために日本が世界からひとつの巨大な政治的圧力と見做されるようになったのは戦前のことですが、同じような環境の改善が、今日では老人の数を増大させ、おそらく西欧のどの国より変化の早い、精神生活の根底まで不変なものの失われた国に、適応能力を失った人間たちの巨大な集団をつくりだしつつあるわけです。
つまり、老人にとって、もっとも住みにくい国に、老人の群が急速に増えつつある、という事態が、我国が西洋の文明を輸入した実質的な結果ということになります。
そこまで話を大きくせず、「老」を自分一個の問題と考えても、藤村の云うような「光った、難有い」老年を得るには「老」がまず肉体的、精神的な衰弱だという現実をうけ入れ、それを出発点とするほかはないでしょう。
老人がいくら自己中心に傾いても、その自己が間もなく消滅することは、認めざるを得ない筈で、このような執着と限界の意識から、新たな転機を生みだすために、芸術の役割が、あらためて考えられてよいと思います。
芸術は一方において、あくまで自己中心的なものであり、個性のもっとも深い部分の外化、表現であると同時に、その表現という行為によって、他人の評価に身をさらし、そのことで、他の手段では得られぬコミュニケーションを行うからです。
藤村の云うように「老」が光ることがあるとするなら、それはこのような作業が成功したときと思われます。