「『鍵-谷崎潤一郎』の解説 - 山本健吉」新潮文庫 鍵・瘋癲老人日記 から

f:id:nprtheeconomistworld:20201123083714j:plain

「『鍵-谷崎潤一郎』の解説 - 山本健吉新潮文庫 鍵・瘋癲老人日記 から



『鍵』の第一回は、昭和三十一年一月の『中央公論』誌上に掲載された。その後、三カ月中絶して、第二回は同誌五月号に、第一回分を再録併載して発表され、以後十二月号まで一回も休まず、第九回をもって完結した。
『鍵』はその第一回が雑誌に発表されたときから、その大胆な性の叙述が大きな反響を呼んだ。議会でさえ問題とされ、谷崎氏は執筆途上に聞えてくる俗論の渦に、大いに悩まされた。だが、私に言わせれば、この小説は露骨な描写を問題とするにはあまりにも具体性に欠けた、抽象的な小説なのである。
第一ここには、生きた具体的な人間は、ただ一人も書かれていない。ここには四人の男女が登場する。そのうち、主人公と木村とは、京都のある大学教授と書かれているが、彼等の教授らしい言動が、ただの一つでも書いてあるわけではない。もちろん、書けなかったのでなく、書こうとしなかったのだし、書く必要もなかったのである。
主人公の妻であるヒロインの郁子も娘の敏子も、同様である。彼等の心の生活は、すべて捨象[しやしよう]されている。四人とも陰険な性格と書かれている程度で、彼等がいささかでも心の動きを見せるのは、それが性の欲求にもとずくかぎりにおいてである。そして、その一点を拡大するために、他のすべての感情も知性も、切り棄てられてしまった。強いて類比を言えば、乳房や臀部や性器だけをむやみと拡大して表現した縄文土偶のごときものであろうか。
この小説には、五十六歳の夫と四十五歳の妻との日記が交互に現われ、組合されている。それは表向きは秘密の日記で、その隠しどころに二人とも苦心を払っているのであるが、それが相手に読まれることを始めから考慮に入れ、しかも読んだということをいささかもそぶりに出さないことを期待している。そして書いて行くうちに、それは読まれることを望むようになり、自分の欲求を暗黙のうちの伝達方法となり、また相手の欲求を自分の望むように目覚ませるための手段となる。さらにそれは、相手をあざむくための手段となり、相手を破滅させるたくらみがこの手紙のなかに仕組まれるに至る。
愚かしい、あるいは陰険な権謀術数が、この日記によって戦わされるのだが、それは彼等の心の動きによるものではなく、彼等の性の欲求によっている。彼等は自分の感情も思想も、それに係わりのあるすべての生活も、すべて作者に預けてしまって、その抽象化された性本能を主軸として動かねばならない。完全に自分の性本能の傀儡[かいらい]と化すという、抽象的な役割が、彼等には課されているのである。

 



五十六歳の夫は、体力も性的な欲求もめっきり衰えながら、観念的にはいよいよ旺盛になっていて、彼は最後の余力を振りしぼってその観念的欲求に仕えようとする。そして如何なる条件も、自分の死の恐怖も、それを制禦[せいぎよ]する力とはならない。滑稽と言えば滑稽だが、厳粛でもある。
「ソノ時僕ハ第四次元ノ世界ニ突入シタト云ウ気ガシタ。忽[たちま]チ高イ高イ所、トウリ[難漢字]天ノ頂辺ニ登ッタノカモ知レナイト思ッタ。過去ハスベテ幻影デココニ真実ノ存在ガアリ、僕ト妻トガタダ二人ココニ立ッテ相擁シテイル。......自分ハ今死ヌカモ知レナイガ刹那ガ永遠デアルノヲ感ジタ。......」過去におけるもっとも厳粛な哲学的思索といえども、彼が性の陶酔という方法で到達したこの永遠の瞬間の追求であったという点で、変るものではない。
夫は妻の肉体を何物にも代えがたいものと思っている。四十五歳の妻は、いまや淫欲旺盛な、女の肉体の成熟の頂点と言うべきであるが、女らしい身嗜[みだしな]みで身をよろっているので、夫は妻の肉体から十分の性的満足を受取ることができない。そこで彼は、木村という若い男を妻の肉体の極限まで近づかせるようにし、その嫉妬の刺激で自分の衰えた欲求をふるい立たせ、さらにまた、妻の豊満な肉体のうちに眠っていた性的に未開発だった欲求に目覚めさせようとする。そのたくらみは、十分に成功したように見えたし、彼は近来とみに血圧が高くなったことを忠告する医者の言葉を聞き流し、陶酔を求めて極限まで行く。
だが、その夫の意図には大きな誤算があった。性的に目覚めさせられた妻は、夫の貧弱極まる肉体を、若くたくましい木村の肉体の魅力と比較することで、はなはだしい嫌悪感を抱くようになる。木村との関係も、夫がひそかに希望したすれすれの限界に止まることができず、彼の言う「オーソドックス」な肉体関係にまで行く。木村による性的な欲求の開発と肉体の訓練とは、逆に夫をますます妻の肉体の魅力に溺れさせることになるが、それは妻の夫への殺意によるさそいの手であった。彼は妻の肉体の上で卒中を起し、さらに二度目の卒中で死んでしまうのである。

小説とは元来、自由意志の劇であり、主人公は自分の破壊すらも、自分の自由な意志によってあえと選び取るものとすれば、この『鍵』においても、主人公がみずから好んで自分の破壊に飛びこんでいる点で、それは自由意志の劇だと言えるかも知れない。だが『鍵』の主人公は、性的欲望以外のあらゆる人間的な属性を捨象した抽象的人物なのだから、そこには実は本能的欲求だけがあって、人間の意志はないのである。するとこの小説は、自由意志の悲劇ではなく、そのパロディとしての、性的欲望の喜劇なのである。このこと自身が不毛であり、破滅であるという判断を超えて、あえて窮極にまで突き進む欲望のどうにもならぬ狂暴さが、ここに戯画化されている。それを不毛なものとして描き出しながら、その不毛なものにかかわらざるをえない人間の業の深さを、作者は噛みしめているのだとも言えよう。
性だけを純粋に抽出して描き出すという手のこんだ方法を試みることで、奇々怪々な性の本態の背後に、人間の生と死についての洞察をにじみ出させる。
それは、作者が老境において達した人間認識の一端である。そこには人間の性愛と死とが、不可分の主題としてないまじっている。それは源氏物語においては響いていた主調低音であるが、『細雪』では聞くことのできなかったものである。そしてそれは、次の『瘋癲老人日記』において、いっそう深められているのを見ることができるだろう。