「神様の休暇 ー 澤地久枝」文春文庫 巻頭随筆IV から

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「神様の休暇 ー 澤地久枝」文春文庫 巻頭随筆IV から

生きているといろいろなことがある。
わたしは人生を旅と思い、出会う出来事はすべてその駅と思って暮す癖が身についた。
病むことも、恋を失うことも、職場で失意の日を送ることも、すべては生きているからゆきつく駅の一つ一つなのではないかと思っている。そして、誰の人生にもかならず死という終着駅があることも、旅としての条件を完全にそなえている。
旅人の一人であるわたしは、いま休暇中である。休暇中にしては、なんとあわただしく仕事をしているのかと思われるにちがいないが、わたしの休暇はすこしちがう。
心臓の左心室と左心房の間にある僧帽弁狭窄症(リュウマチ熱による)で二度の手術を受けつつ生きてきて、また状況が変った。
「超音波診断では弁尖部の癒着、肥厚 を認め、また弁下部の腱索、乳頭筋の肥厚を認めます。結論としては、しばらくはこれまで通りの内科的治療を継続し、経過をみながら数年後には再手術(人工弁置換術)が必要となるでしょう」(人間ドックの総合判定)
二年前の六月、榊原記念病院の小船井院長からわたしは診察室で結論を聞いた。病室へもどるとき、婦長が、
「ショックですか」
と聞き、否定すると、
「これからは洋服のデザインもお考えにならないと。開胸は中央部のここまでですから」
とのどもとを指で示した。はじめて弁交換手術の実感があった。
「数年」という時間に多少こだわりながら、わたしはいよいよ手術という日が来るまでの時間を、「神様のの休暇」と考えることにした。寝たきりで暮らしても、それを避けられ る保証がないとしたら、無理は避けつつ仕事をつづける以外に方法はない。三度の手術は、もしでかるなら、
「我より過ぎ去らせ給え」
というべき苦杯である。しかし、無神論者のわたしも、それが「みこころのまま」になされることを観念している。
診察のたびに、「いよいよですね
」といわれることを思って緊張する一年九ヶ月が過ぎた。神様の休暇というか執行猶予のようなこの時間に、わたしは仕事で中国へ二度、アメリカに一度出かけている。遊びの旅は一度もなかった。
この三月、ちょうど書きおろしが終り、つぎの連載の準備に忙殺される日を前にして、わたしは台湾の台北へ行った。近接するのなかの小さな休暇、とくに目的のない旅である。
しかし、台湾は旧友向田邦子さんの遭 難の地であった。去年の八月十九日夕刻、わたしたちはひさしぶりに電話で話した。近くに暮しながら、わたしたちは年が改まってから一度も会っていなかったのである。
二十日の朝たって、台北・高雄へ行き、二十五日に帰ると彼女は言った。帰ってきたらどんなに忙しくても会おうねとくりかえして言った声が、なんとも人なつこい頼りなげな声であったことが、まだわたしの耳にのこっている。わたしは七月から八月にかけて、書きおろしの「もうひとつの満州」を書くことになる中国への取材旅行をすませたばかりであった。
台北は治安状態のいい街である。夜店は午前二時ごろまでにぎわい、蛇料理やスッポン料理の実演の前に群がる人々に紛れこんでも、なにひとつこわいような経験はしなかった 。
つつじが満開であり、リンゴと苺を交合したような「蓮霧」という小型の果物が露店に並ぶ。たっぷり太陽を浴びたトマトは、子供の日に大陸で食べたトマトの甘さと匂いをもっていた。
どこへ行き、なにをしていても、「彼女はここへ来たかな」という思いが頭をかすめる。故宮博物館があの人のお目あてだったはずだが、青銅器が主体の展示品に、やきもの好きの向田さんは失望しただろうと思ったりもした。
生き急いでいるのじゃないかと思いながら、直木賞受賞後の忙しさを思って、わたしはもう少しの間、離れて見守っているつもりでいた。しかし、あの人もまた「神様の休暇」の一刻一刻を、悔いのないように夢中で生きていたのかも知れない。台北の夜の街を歩いていると、向田さんの最後 の時間、その足どりが見えてきて、つい涙が溢れそうになった。
わたしの「神様の休暇」はあとどれくらいかわからない。息切れが気になるのでビクビクしている。「どうぞもう少しだけ休暇を下さい」とその寛容を祈りたいような思いである。
台北を去るときは雨で、飛行機の窓を涙のような幾筋もが流れつづけた。あの人のいのちはここで消えたけれど、わたしたちのいるところにあの人はいる。だから「さよなら」はいわずに帰ってきた。