「東京なまり - 山本夏彦」文春文庫 完本文語文 から

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「東京なまり - 山本夏彦」文春文庫 完本文語文 から

夏がくると思いだす。向田邦子のことは生前何度か書いたが、ことのついでに一寸ほめただけで、まるごとほめたのは彼女が不慮の死を死ぬ一年足らず前の一度だけである。あとで間にあってよかったと思った。
私は白状といって告白とはいわない。シャボンといって石鹸といわない。昭和五十六年といって一九八一年とはいわない。だからといって告白というなと強いるつもりはない。自然主義以来皆さん告白したがる、したけりゃ勝手にするがいい。
このごろ文部省だか国語審議会だか、なるべく見れる出れる食べれると言うなと言ったと聞いて、何を今さらと思った。言うなら三十年前に言え、四十五十の男さえ起きれる寝れると言っている。「衆寡は敵しない」といって私は新入社員に「衆寡は.....」云々を聞いたことがあるかと問うて「ない」という答えを得て、また弟子は常に不肖であると言って、これも聞いたことがあるかと問うて「ない」と答えたので以来片はじから聞くことにしたのである。知らぬと答えて何より悪びれないのは、友の多くはもとより母親たちも知らないからで、これがこの五、六年の特色で、核家族は完了したのである。母娘の語彙が全く同一になったのである。それじゃなにも分からぬかというと、不肖の子と本字で書いてあれば分るのである。ただし「本字ってなあに」だからいつまで分るか知れたものではない。
それはさておき向田邦子である。その佳作「あ・うん」である。邦子の分身の水田さと子の父水田仙吉は二流の製薬会社の地方支店長である。学歴が全くないのに支店長になれたのは並々ならぬ苦労だったろう。時はターキー(水の江瀧子)とオリエ津阪の全盛時代である。水田仙吉は時々二流の保険会社の地方支店長になって別の小説中に登場する。モデルは作者の父親である。
父はしばしば会社の帰途下役をつれてくる。母はとりあえず酒とつまみを出して、その間に献立を考える。父は客のない家は栄えないと思っている。会社帰りの四、五人の客は今なら迷惑だが、母は嫁に来たときからそうだから苦にしない。特に招いて客を呼ぶときは床の間に香をたくから子供たちは緊張して時々様子をうかがいにいく。さと子の母たみは常には亭主の靴下に電球をいれ穴かがりをしているような女である。手拭を襟にかけている。別珍の足袋を穿いている。ぬぎ捨てた汚れた足袋の片っぽに、もう片っぽをつっこんでいる。
水田仙吉の無二の友門倉修造はアルマイトの工場が当ってちょっとした軍需成金である。十五代目羽左衛門をバタくさくしたような美男で、おしゃれで、英国屋で誂えた服を着こなして、コードバンの靴を穿いている。
この英国屋なら戦後の今もある、戦前は一流の洋服屋だった。コードバンは馬の尻の革である。年中鞭打たれて一頭から何足もとれないから高価で、昭和初年の流行である。それにひきかえ水田仙吉はみるかげもない中年男だが、わけあってこれが無二の親友なのである。
バタビヤは目黒駅前のカフエーの名である。
さと子は水菓子が切れていたのを買いに出された。母に言われた八百屋は早仕舞いで、表通りまで買いに行って果物屋忠犬ハチ公が今朝、死んだと聞いた。帰りしなに見上げた木蓮の蕾が割れ、暗紫色の花びらが一枚垂れていた。犬の舌のように見えた。
身の丈抜群の門倉修造は仙吉の女房チビのたみに惚れていると言いたくはない、思っている。たみも修造を憎からず思っている。それ以上のことはありっこないと仙吉は安心して見ている。
台所であけたてする音がする。今日は天長節である。休みというと門倉が碁を打ちにくる。石を置きながら尻取りで応酬する。「四場所優勝、無敵双葉」と仙吉が得意になると門倉がいいところに石をピシリと置き、仙吉がアイタタタとうなると門倉が「タンクに日の丸南京入城」。
向田邦子はこれが昭和十二年だということをわざと明かさないで手をかえ品をかえ読者に承知させる。忠犬ハチ公が死んでいる。双葉が四場所優勝している。時代考証というが誰が見ても昭和十年前後の貧しい家庭なのに、戦後の読者は香をたいているから金持、中流の家庭だと勘ちがいする。中流なら女中がいる。
昭和戦前という時代をこれだけ彷彿たらしめた作品はないのに、事は志と違うのである。
私は彼女が小説中に東京弁を用いて他を用いないのに驚くのである。戸をあけたてと言ってあけしめと言ってない。湯あがり湯かげんと言って風呂あがりと言ってない。松の内は早仕舞いといって店じまいといってない。抵抗である、店じまいは店をたたむことだ。
向田邦子は父の転任に従ってはじめ東京、宇都宮、鹿児島、高松、小学校だけでも転々としている。それにもかかわらず東京の言葉しか用いないのは母方の祖父が日本橋の建具屋で、邦子は戦後その家に四年近く下宿させてもらって専門学校を出たからである。この時東京弁を自分のものにしたのである。
東京弁が中心だったのは漱石の時代までである。漱石の弟子は多く田舎の高等学校(旧制)出の帝大生である。上京直後の一年間かけずり回って寄席と芝居を見て東京弁を自分のものにしようと試みた。四十年近くたって向田邦子はそれに似たことをしたのである。以後それをする人は絶えたから私は懐旧の情にたえないのである。