1/2「江戸の出版界 - 藤沢周平」文藝春秋 刊 帰省ー未刊行エッセイ集 から

1/2「江戸の出版界 - 藤沢周平文藝春秋 刊 帰省ー未刊行エッセイ集 から

江戸時代の版元というと、文人墨客、狂歌、読本(よみほん)の作者、本絵師、浮世絵師などが始終出入りし、またある日は草双紙出版の相談に加わるために、名の知られた彫師、摺師の親方が駆けつける、といった活気に溢れた店先風景が思い描かれてくる。
だがこうした光景は、徳川三百年もあらまし三分の二を過ぎた、安永、天明年代頃からのことであり、それ以前の版元の業態というのは、ごく地味なものだったというしかない。
徳川家康は書籍出版にも熱心で、慶長年代に『孔子家語(けご)』、『貞観(じょうがん)政要』、『周易(しゅうえき)古註』などの儒書、わが国の古書である『東鑑(あずまかがみ)』などを刊行させ、とくに後に出版した『大蔵(たいぞう)一覧集』、五十巻という大部に及んだ『群書治要(ちよう)』は精巧な銅活字を使って印刷させるなど、出版に力を入れた。出版には当時の知識階級である僧侶、儒者が協力し、板行奉行を置くという物ものしさであったが、こうした家康の出版熱は、幕府の文教政策とも結びついて、後代に継続されただけでなく、民間の出版事業を刺激し、直江本、光悦本など地方の出版事業を促し、江戸にも版元、書肆(しょし)の発生をもたらす 素地とな った。
だが発生当初の書肆は大方、寺院、幕府儒官、藩校、宮家などに出入りして、彼らが所有する旧版を復刻刊行する、あるいは蔵版の下げ渡しを受けて版行するのが常識で、自分の店独自の版木をおこして新作ものを出版するというまでには至らなかった。これにはもちろん、当時の読書人口から考えて、新しい版行を行なっても収支つぐなわないという経済的事情もからんでいるので、版木を所有する場所にお出入りでつながっている方が、経済的には安全だったわけである。このようにして、松会三四郎、日下日八衛門、中野仁兵衛らの幕府御用書肆も出現した。
従って当時の出版物は、仏書、儒書、軍書、歴史書医書などの固いものが中心で、他には歌書、連歌俳諧書、一部に物語を含む程度であったようだ。
しかし寛永年代に入ると、事情はやや異なってくる。江戸絵図、武鑑類が刊行され、室町時代お伽草紙の復刻本、また仮名草紙と呼ばれて、神儒仏の教えをわかりやすく絵入りで書いた読物などが出た。寛永十九年(一六四二)には、吉原細見(さいけん)の嚆矢(こうし)ともいうべき『あづま物語』のようなものも出版されている。
こうした民間出版の新しい傾向が、どのようにして出てきたかが興味のあるところだが、ひとつは寛永という時代の平和さが、その基底にあるだろう。もはや天下を二分するような戦乱があり得ないことを、武士階級、町人階級ともに、この時代に認識しはじめていたのではなかろうか。十四年秋から十五年二月にかけて、島原の乱があったが、果たしてそれは徳川幕府という政体ゆるがすような力ではあり得なかった。出版物は、すばやく時代を反映する。いわば柔らかい出版物の芽が、この時代にみられるのは、時代の穏やかさを映すものであろう。
次には書肆が、他人の版木を借りて出版する隷属的な時期を経て、この間に資力をたくわえ、自己資本で版木をおこせるほどの経済力をそなえてきたことが考えられる。つまり版元の出現である。お出入り出版の間に、技術者とのつながりが深まったことも考慮に入れてよいだろう。
これにつけ加えれば、江戸という都市の定着にともなって、江戸案内のような出版物の需要が生まれたこと、武士階級は依然支配者であったものの、町人階級が徐徐に力をのばし、彼ら自身の読物を欲したことなども、寛永という時代の出版情勢の変化の中に読みとれよう。
この時期を境に、いわゆる町人文化発達の一翼をになって、従来の知識階級とは異なる江戸市民という新しい購買層めあての出版物が次第にふえ、やがて草双紙、洒落本、合巻(ごうかん)物、錦絵などが氾濫する安永以降の、きらびやかな時代が出現するのであるが、その前に享保六年に出来た問屋仲間制度に触れる必要があろう。
江戸の株仲間、つまり営業権を独占する同業者組合が初めて出来たのは慶安年間で、風呂屋がその第一号であった。次いで元禄年間に暦屋八十一店、享保に至って両替商六百店が株仲間として許可された。仲間は免許札、即ち株を与えられて営業し、新規開業は停止された。つまり営業独占である。
この現業者による営業独占が、商人にとって羨望の的だったことは言うまでもない。元禄七年に、江戸、大坂間の舟運によって商売する荷主が十組問屋(とくみどいや)を作ったのも、諸国物産の卸売り業務を独占するあたりにねらいがあったようで、事実仲間の申し合わせによって、それに近い効果をあげたが、株の認可には至らなかった。しかし十組問屋は文政五年には六十五組になり、ついに株を取得する。
株仲間は、仲間の制限、株の譲渡についての取り決め、奉公人の制裁などを申しあわせ、新規加入を厳しく規制することができた。
法に認められたこの権利を維持するために、十組問屋(旧称をとなえた)は年間それぞれ酒問屋千五百両、繰棉問屋千両、紙問屋三百両など合計一万二百両を幕府に冥加金として納め、なおそのほかに無代物納、無賃人足の提供を行なった。現業独占による利益は、冥加金の上納などに換えられないものがあったわけである。
しかし以上のような株仲間の結成に対し、享保六年の書物問屋仲間の許可は突然にやってきたのであった。幕府の命令によって、冥加金の上納も、無賃人足の提供も必要のない天下りの仲間組織が出来たのである。書物問屋仲間に続いて、絵草紙、洒落本などを扱う地本草紙問屋、後に錦絵が盛んになると、錦絵本問屋が、それぞれ問屋仲間を作ったのである。
ここで蛇足を言えば、当時の問屋がすべて版元であるわけではない。京坂から取り寄せる本を小売に卸すだけの問屋などもいるわけで、厳密には問屋数と版元の数は一致しない。しかし僅かな部数を版行して、自家販売するような零細版元をのぞいて、いわば名のある版元は書物問屋、地本草紙問屋、錦絵本問屋に含まれており、また当時の名簿によれば、これらの問屋を兼業している者が多い。従って問屋仲間の、これから述べる経過も、おおよそ当時の版元の事情と解釈して頂いて差し支えない。
事実幕府が出版関係の仲間を作らせたのは、現業独占を認めて業種を保護した風呂屋、暦屋などの場合とは違って、仲間組織を通じて出版を取締まるところに目的があったのである。
出版関係の仲間組織が、それ以前に全くなかったわけではない。出版事業が営業的に見合うようになった寛永年間に、日本橋通町から十軒店の間にある書肆が通町組を作り、また下って寛文の頃に日本橋の万町、青物町付近の書肆が、中通組を作った。さらに享保に至って中通組から別れた書肆が南組を称し、この仲間組織を、江戸本屋三組仲間といったのであるが、勿論公認されたものではなく、従って書籍販売の特権を得たようなものではなかった。幕府はむしろ私党忌避の立場から、仲 間寄合い 停止の取締り方針を打出していて、出版関係の仲間は、寛文十三年に公認した版木屋仲間だけで十分だと考えていた。ここをチェックすれば、出版物の取締りが可能だったからである。
それが一転して、書物問屋仲間、続いて地本草紙屋仲間、錦絵本問屋仲間を認めたのは、江戸のおける出版物が、元禄の頃から種類も数も飛躍的に増え、版木屋仲間を押さえているだけでは、出版物を統制し切れない状況が出てきたためであった。