「誤訳と誤用 - 羽仁 翹(ぎよう)」文春文庫 巻頭随筆2 から

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「誤訳と誤用 - 羽仁 翹(ぎよう)」文春文庫 巻頭随筆2 から

ウォーターゲート事件アメリカの政治、社会そしてジャーナリズムにあたえた大きな衝撃と影響と共に、その生んだベストセラーの数でも歴史に残るだろう。告発側のウッドワードとバーンスタインの二冊、ホワイトハウス会話テープ記録に続いて、被告側のホールドマンとニクソンの弁明の書も相ついで出版された。
このうち元大統領首席補佐官のボブ・ホールドマンのThe Ends of Powerは文藝春秋四月号の誌上に「権力の終り」という題でいち早く抄訳が掲載されたが、この訳題に問題がある。
この本の内容そのものの興味と同時に、独占契約の裏をかいたワシントン・ポストのすっぱぬきもニュースになり、日本の新聞の特派員も一せいに記事を送った。その際全ての記者がこの題を「権力の終焉」あるいは「権力の終り」と訳していた。問題の抄訳版の題がこれらの記事に影響されたかどうかはわからないが、これは正しくない。The EndではなくThe Endsだからである。
映画の終りに出て来る英語を思い出して頂けばわかるが、終り、の意味で使われる時は常に単数である。終りは一つなのだ。ではこのEndsはどういう意味なのか。この答えが意外に簡単ではない。
Endという名詞には少なくとも十の意味があるが、その中複数で使われるものの中、この題名の解釈にあうものが三つある。consequences, results結果、purposes目的、とboundaries, limitations限界、極限である。これのどれとも決めかねた私は友人のアメリカ人ジャーナリスト十人ほどに意見を聞いてみたが、答えは面白いことにこの三つにわれたのである。
その後手に入った原本の二つの前書きと後書きを読み、この解釈の手がかりを得ようとしたが、「結果」と「目的」を示唆するセンテンスがそれぞれ一つずつ見つかっただけで結局、書いたホールドマン自身に聞いてみないと真意はわからない、ということになってしまった。日本語にない数の概念がからまると一見簡単そうなこともややこしくなるのである。
私は二つの言語にまたがる仕事をしているのでこのような誤訳や誤用に神経質である。長い間使われていて誰も指摘しない誤訳もかなりあるが、ポピュラーな歌の題を一つあ げてみよう。「聖者が町にやって来た」である。
これはWhen the Saints go marching in の訳だが、どこにこの聖者たちが入るのかについて大変なまちがいを犯している。聖者たちが入って行くのはどこかの町ではなく、天国なのである。この歌詞の第三行目は
How I want to be in that number
であるが、これは聖者たちが天国に入る時、私もその行列に入っていたい、という切なる願いを表わしたもので、that heavenという言葉を使わなくても英語国民にはピンとくるのが我々にはそうでないのでこのような誤訳になるのであろう。
これらの例が示すように、二つの言語にまたがる問題は文化の問題である。異質の文化を背景にして生まれた言葉を正しく理解するためには、相手の文化そのものを理解しなくてはならない。これは私たちの仕事である、日本出来事や日本の考えを、外国人に伝えるという仕事でも同じことである。
これから梅雨期にむかい、河川のはんらんの記事が多くなるが、日本の新聞で使われる、床下浸水、床上浸水、をそのまま英語にうつしてしまうと、わけのわからないことになる。南方系の高床式の日本家屋を知らない人にとっては、床の高さは即ち地面の高さであるから、床下浸水、などと いうことは理解のらち外なのだ。
不燃住宅、という言葉も同じような例である。日本人にとって住宅は本来木でできているものであり、煉瓦やコンクリートの住宅は燃えにくいというので不燃住宅とよんでいるが、これは西欧人にとって普通の住宅である。不燃住宅建設公社、という社名をそのまま英語にしてNonflammable Housing
Construction Corporationとしていたために起った珍談をかつて耳にしたことがある。この公社の役員が渡米した際社名の入った名刺を出すと、相手が決って目を輝かし、一体どんな新しい不燃建材を開発したのか、是非おしえてくれ、或いは、パテントを譲ってくれ、と迫られたという。それ以来、Nonflammableという形容詞は社名の英語版から正式に削除されたそうである。
このような誤訳や不正確な訳と同時に、誤用、珍用も大いに気になる。国鉄が盛んに宣伝している「山手線内フリー切符」などというのは最も気になるものの一つである。フリー切符、というから無料なのかと思うとちゃんと値段がついている。またスポーツ用語に誤用の多いのも目立つ。一つだけ例をあげると、ブルペンエース、というのがある。日本語と しては、これは練習場では素晴しい球を投げるがマウンドに上がるとからっきし駄目な投手のことを言う。しかし本当の意味は、リリーフの切り札、中日の鈴木投手のようなピッチャーのことをいうのである。
外国語をカタカナでそのまま使える日本語は便利であるが、使う以上は正しく使いたいものである。