「もしあのとき - 宇野千代」ちくま文庫 わかっちゃいるけどギャンブル から

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「もしあのとき - 宇野千代ちくま文庫 わかっちゃいるけどギャンブル から

私が麻雀を覚えたのは、それほど早い頃ではない。昭和の七、八年の頃で、いまから凡そ四十五、六年前である。その頃、私は尾崎士郎と一緒に、大森の馬込村に住んでいた。或るとき、つい近所に、広津和郎さんが越して来るようになったのであるが、いまになって思うと、この大先輩の気易い受入れ方に、私たちは忽ち馴れ、毎日のように遊びに行ったものである。
広津さんの家には、いつでも、私たちと同じように、気易く出這入りしている後輩たちが、おおぜい集っていた。それらの人たちの間で、麻雀をしているものが多かった。生れて始めてこの遊びを見た私は、忽ち夢中になった。このとき、私に手ほどきをしてくれたのは、広津さん自身であった。性来の親切心で、手ほどきをしてくれたに過ぎなかったのに、しかし、このことは、私にとって、私の運命を支配するような大事件であった。こんなに面白いことがあるか、と思った私は、夕方になっても家へ帰らなかった。そして、あんなに大好きであった尾崎士郎のために、夕飯を作らなければならぬ、と言うことも忘れた。尾崎は何を食べたが。たぶん、昼飯の残りを食べて済ませたか、どこかへ飯を食べに外出したかに違いないのに、そのことに気をとられるよりも、麻雀の席から立つことが出来なかった。毎日、同じようなことが続いた。私には、これは単なる遊びごとである、と言う弁えもなかったのかと思う。
尾崎がこのことで、私に文句を言ったと言う記憶はない。尾崎は私と違って、勝負事が好きではなかった。私は好きであった。私が好きなことに夢中になり、尾崎が好きでないことに夢中にならない、単にそう言うことと思って、少しも気にとめなかった私のことは、一体、何と思ったら好いのだろう。
尾崎と私が別れるようになったのは、麻雀が原因ではない。いや、ほんの少しは原因であったかも知れない。正確に言うと、自分のしたいことに夢中になって、そのために、迷惑する人があろうとは思いもつかない、私の性格が原因であった。尾崎と別れるとき、あんなに泣いたのに、しかし、それでも麻雀は止めなかった。
間もなく私は東郷青児と一緒になったのであるが、運の好いことに、東郷は尾崎と違って、麻雀が好きであった。また都合の好いことに、隣家に麻雀好きの夫婦が住んでいたので、暇さえあると、一組になって卓を囲んだ。夜中になって、ふいに麻雀、ということになると、この隣家の寝室の窓をノックして、「ねえ、青ちゃん、ちょっと起きてよ。」と言って呼んだりした。青木さん、とは呼ばないで、青ちゃんなどと呼んだりしていたのであったが、夜中に呼びに行ったりしても、喜んで飛び起きてくれた。
しかし、或るとき、とんでもないことが起ったのであった。玄関の呼び鈴がふいに鳴って、三、四人の男が土足で上って来た。「東郷さん、宇野さん、ちょっと警視庁まで来て下さい。」と言うのであった。年輩の人なら、記憶している人があるかも知れない。昭和十年頃、或る朝新聞に、文士の大賭博と言う見出しで、でかでかに報道されたことがあるが、菊池寛久米正雄その他、おおぜいの文士たちが、麻雀賭博で挙げられたことがあった。私も東郷も、そのあおりを食って槍玉に上ったのであった。東郷のアトリエは玄関のすぐ脇にあった。「私が東郷です。宇野は病気で寝ていますが、」と言って、東郷は自分だけ刑事に連れられて行った。私は寝ていたのではなく、ちょうど私の書斎が寝室の奥にあって、彼等の眼につかなかとたので、私をかばって、東郷が嘘をついてくれたのであった。
東郷はそのとき、二、三日警視庁にとめられたように思う。恐しさに慄え上った私は、しかし、その後ぷっつりと麻雀を止めたであろうか。そのことについては、はっきりした記憶はないが、たぶん、ほとぼりが覚めると同時に、また始めたものと見える。こんなに恐しい目に会っても止められなかったとは、呆れたものである。
東郷と別れたあと、私は北原武夫と一緒になったのであったが、やっぱり三日にあけず、麻雀を続けていた。しかし、この遊戯をあまり好きではなかった北原とは、自然に、別々のことをして過ごすようになった。私には、世の中に、麻雀をあんまり好きではない、と言う人のいることが、どうしても理解出来ない。いまでも私は、書き物は昼間、明るい中にする習慣であるが、一時は夕方になると、毎晩のように麻雀をしたものである。あれは、うちでやっていた「スタイル」と言う雑誌が発行不能になって、会社が倒産したときのことである。借金取りに追いまくられて、東京中を逃げ廻ったことがあったが、そのとき、名もない裏町の小さな宿屋から宿屋へ泊り歩いていると、隣りの部屋で、麻雀をしている音がしている。私はしゅんとした気持になって、「ああ、私は、あの麻雀がいまは出来ない。」と溜息を吐いたものである。あんな辛い気持になったことは、めったにない。
あのときから、もう二十年になる。いまでは私も、満八十歳になった。体力がないので、毎夜のように麻雀をやることはないが、それでも、一週間に二回はやる。ときには、夜が明けることもある。
「どうして、そんなに面白いのですか、」とよく人が聞くが、私は八十歳になっても、この麻雀があれば、人生そのものが、まだあるような気がするのである。全く麻雀は面白い。どんなにあせっても、思いのままにならないかと思うと、どんな厄介な手でも、するすると出来上る。まるで空の上から神さまが見ていて、残酷になったり、依怙贔屓をしたりしているのではないかと思われる。全く退屈を知らない。
私の父は一生の間、正業を持たないで、博打ばかり打って暮した。小さい子供の頃、よく母と一緒に警察の留置場に入れられている父のところへ、弁当を届けに行ったものであるが、そのときなは分らなかった父の気持も、多少は分るような気がする。この父に比べると、昼間だけでも、書き物をしている私の方が、いくらか正気であるかも知れない。
それにしても、あの四十五、六年前、広津さんが私に麻雀を手ほどきしてくれなかったら、私はもっと仕事をしていただろうか。しかし、私は、もしあのとき、麻雀を教わらなかったら、などとは決して思わない。
却って、こんなに面白い、人生的な遊びを知らない人のことを可哀そうだと思っているのだから、呆れる。