2/2「荒川を渡って路地の町へ - 四ツ木、堀切(葛飾区) - 川本三郎」ちくま文庫 私の東京町歩き から

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2/2「荒川を渡って路地の町へ - 四ツ木、堀切(葛飾区) - 川本三郎ちくま文庫 私の東京町歩き から

堀切の町はいたるところに暗渠が走っている。ついこのあいだまでは小さな川がたくさんあった湿地帯たったことをうかがわせる。このあたりの居酒屋や食堂にどじょう鍋が多いのもその名残りだろう。堀切菖蒲園が出来たのも湿地帯だったからだろう。
堀切菖蒲園(入場無料だった)に行ってみたが季節はずれで人の姿はなく閑散としていた。思っていたより狭いところで住宅と高速道路に囲まれて窮屈そうだった。
菖蒲園のそばに珍しく木造の大きな建物が残っていた。昭和二十年代に東京の町のどこにでもあった小学校の木造校舎によく似ている。なんの建物かと思って見たら卓球場だった。堀切卓球会館とある。「ピンポン気軽にどうぞ」とある。そういえば子どものころには卓球場はいろいろなところにあったものだ。ピンポンは人気のスポーツだった。最近出版された北杜夫の『或る青春の日記』(中央公論社)を読むと学生時代の北杜夫はよくピンポンをしている。映画『下町の太陽』のなかでも倍賞千恵子が昼休みによくピンポンをしていた。
いまはどうなのだろう。ピンポンという言葉も死語になったような気がする。この堀切卓球会館も昔ながらの木造の建物であるところを見るとそれほどにははやっていないのかもしれない。
そこから歩いて京成電車堀切菖蒲園駅に出た。ここは駅を中心ににぎやかな商店街がひろがっている。二時間近く歩き続けたので休もうと駅裏のいかにも駅前食堂という感じの店に入った。そこにもどじょう鍋があった。それを肴にまたビールを飲んだ。葛飾区のこの店のビールはアサヒではなくキリンだった。どじょうの上にのっかっていたネギとゴボウがおいしかった。
京成電車に乗って上野に出てアメヤ横丁でもひやかして帰ろうかと思ったが日はまだ高いしとても一月とは思えないほど暖かい。地図を見ると堀切橋がすぐ近くにある。これを渡って荒川の対岸に戻ることにした。
堀切橋といえば昨年出版された芝木好子の短篇集『奈良の里』(文藝春秋)のなかに『堀切橋』という一篇があった。芝木好子の作品は好きだ。『築地川』『葛飾の女』『隅田川暮色』など東京の下町を舞台に古い日本的な美の世界に生きる女を描く作家である。『洲崎パラダイス』は川島雄三監督で映画にもなった。この人の小説を読むとせの舞台になった町を歩きたくなる。『洲崎パラダイス』なら江東区の旧洲崎遊廓、『築地川』なら新富町周辺、『葛飾の女』なら水元公園、『隅田川暮色』なら浅草。
「堀切橋」は、この橋に、自殺した夫との苦い思い出がある女が何年かたってもう一度訪れてみる話だ。浅草から東武電車に乗って堀切で降りる。そして目の前に広がる風景が昔と一変していることを知る。木橋だった堀切橋は鉄橋になった。高速道路が川の上を二段になって横切っている。州はなくなり川岸もコンクリートで築き上げられている。暗い過去を持つ女はその一変した風景を見てかえってほっとする。過去が小気味よく断ち切られたからだ。そんな小説である。堀切橋にはこれまでも何度か来たことがあるが、芝木好子の「堀切橋」を読んでから以前より特別な橋に思えてきた。これまでは堀切駅で降りて堀切駅を見るだけで橋を渡ったことはなかった。
駅前食堂から歩いて十分ほどで橋に出た。大きな橋だった。芝木好子が書いているようにこの橋は以前は木橋だった。たしか東京オリンピックのころまでそうだったのではないか。
やはり二年ほど前に並木座で「『春情鳩の街』より 渡り鳥いつ帰る」(久松静児監督)という面白い映画を見た。昭和三十年の映画で、永井荷風の『春情鳩の街』『にぎりめし』『渡鳥いつかへる』が原作になっている。森繁久彌田中絹代が夫婦で向島の“鳩の街”で娼家をやっている。久慈あさみ桂木洋子淡路恵子たちがそこの女である。この映画に堀切橋が出てきた。森繁久彌は典型的なダメ亭主。田中絹代に頭が上がらない。別れた女房の水戸光子と女の子に会いに行くのだが彼女は織田政雄と新しく所帯を持って曳舟あたりでおでん屋をやっている。絶望した森繁は酒を飲み、酔払い、夜中に橋の上から川にころげ落ちて死んでしまう。その橋がたしか堀切橋たった。昭和三十年の映画で橋はまだ木橋だった。
いま堀切橋は車がひっきりなしに走る鉄とコンクリートの橋である。橋というより高速道路の一部である。車に乗っている人間は橋を渡っているという感じがしないのではないか。しかし歩いて渡るとやはり橋である。川の上に立つと冷たい風が吹きつける。荒川のがらんとした風景は橋の上から見ると芝居の書き割のように見える。
橋を渡ると足立区千住曙町東武電車の堀切駅とその隣りの牛田駅京成電車の関屋駅の三つの駅が近接している。牛田駅東武電車の踏切りを渡り北に少し歩くと足立区柳原町である。この町の柳原銀座という小さな商店街は、東京の大好きな商店街のひとつである。
二年ほど前にはじめて知った。迷い込んだというか誘い込まれたというか、町を歩いていて急にこの商店街にぶつかった。小さな、全体が路地のような町だ。駄菓子屋には水あめやラムネが置いてある。文房具屋ではベーゴマやろうせきや鉛筆のキャップを売っている。コッペパン屋があってパンの中にコロッケをはさんでくれる。銭湯がある。古本屋がある。なぜか無性に懐かしい。この町を知ってから何度か足を運んだ。夕暮れどきにここを歩いていると自分の身体が路地のなかに溶けてしまうような気になる。
東京大空襲の記録で知られる作家、早乙女勝元はこの柳原の生まれだという。新潮文庫に入っている『わが街角』は彼の子ども時代(昭和十二、三年ごろ)の柳原を描いている。荒川、路地のあちこちの水たまり、玄米パン売り、水練場、トウモロコシ長屋と呼ばれた小さな家、そして町のどこからも見えたお化け煙突。
それから五十年たっているのだが、現在の柳原にはいまでも早乙女勝元が描いたような“わが街角”が残っている。そして昭和二十年代の東京に育った人間はここにくると自分の町でもないのぬ自分の町だったような甘くて(そして少し苦い)懐かしさをおぼえるのではないだろうか。
屑屋と見間違えてしまうような雑然とした古本屋で、佐藤春夫の『小説 高村光太郎像』(昭和三十一年、現代社)を見つけた。もう相当目が悪い老主人は大きな虫眼鏡で本をながめたあと「五百円」と値段をいった。安い買物だった。乾物屋の店先をのぞくと「味付けアワビ四百八十円」とある。アワビが四百八十円とは安い。ためらうことなく買った。この商店街に来るといつも何かしら買物をしたくなる。
夕方、家に帰って「味付けアワビ」を肴にビールを飲んだ。しかしこのアワビがどうもアワビの味がしない。よく箱を見ると「味付けアワビ」というのは商品名で原材料は「ラバ貝」と書いてある。「アワビ」という文字の十分の一くらいの文字だから気がつかなかった。
「アワビが四百八十円で売っているわけないでしょ。安物ばかり買おうとする貧乏症だからだめなのよ」と家内に軽蔑された。
しかしこの「ラバ貝」はなかなかおいしかった。「ラバ貝」とは生まれてはじめて知った貝である。