2/2「水と江戸時代が残る町-千住 - 川本三郎」ちくま文庫 私の東京町歩き から

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2/2「水と江戸時代が残る町-千住 - 川本三郎ちくま文庫 私の東京町歩き から

自動車がどんどん走り抜ける西新井橋を歩いて渡った。歩いて橋を渡る人間はほとんどいない。橋はいまや渡るものではなく走り抜けるものになったようだ。橋の真ん中あたりから見る荒川の風景は思ったより雄大だ。広い河原、緑の土手、高速道路、いくつもの橋。路地の町から歩いてくると急に大きなパノラマが広がるような気がする。近くで見ると不快なものでしかない高速道路も、この雄大なパノラマのなかでは美しい造形を見せているのが意外だ。折から水不足騒ぎの東京だが、荒川は思ったより水量豊かで悠々と東京湾のほうに向かっていく。
この荒川、以前は荒川放水路といった。昭和四十年に河川法が改正されてただ荒川というようになった。放水路と呼ばれていたようにこの川は実は人工の川である。狭い隅田川(荒川の下流のことである)が自然の川で、荒川といま呼ばれている川のほうが人工の川とはにわかに信じられない気がする。
荒川放水路はこのあたりが荒川の氾濫による水害がひどいので治水対策として作られたものである。全長二十キロ。『足立区史』によると明治四十四年から大正十三年までかかった大工事だった。
いま西新井橋から荒川を見ると両岸には葦がたくさんはえていてとても人工の川には見えない。むしろコンクリートの堤防で囲まれた隅田川のほうが人工の放水路のように見える。なんだか不思議な逆転現象である。
西新井橋を渡り、右に入ると千住八千代町、現在は、梅田四丁目である。梅田といえばたしか、“キャンディーズ”のなかのいちばん庶民的な女の子、田中好子が梅田の出身だった。
この荒川沿いの一帯はいま上を大きな高速道路が走り、町全体が“橋の下”といった感じがする。『煙突の見える場所』ではこの一角に田中絹代上原謙が住んでいる借家があるという設定だった。上原謙は、日本橋の足袋問屋に通うしがないサラリーマンで「このあたりは家賃が安いので助かります」といっていた。
田中絹代がお化け煙突を見ただろう位置の土手に立って、荒川越しに対岸の千住をながめた。煙突というシンボルはなくなっても荒川というもうひとつのシンボルがあるせいかいつまでも心に残りそうな、きれいな風景だった。
このあたりはいうまでもなく東京のいちばん北に位置する足立区である。足立区というところはふだんめったにこないところである。荒川沿いはそれでもまだ時々は足を運ぶが埼玉県の県境の足立区となるとまだ一度も歩いたことがない。いい機会なので足立区の“奥”にいってみることにした。地図を見ると足立区のはずれに舎人町という町がある。ここは東京都の最北端である。この町から先は埼玉県の草加市である。いわば、“国境の町”である。ここに行くことにした。
千住から舎人町までは交通手段はタクシーしかない。西新井橋から走ってきた車を止めた。若い運転手だった。足立ナンバーなのでこのへんの生まれかと聞くと堀切の生まれだという。それでも、お化け煙突を知っているかと聞くと運転手は「自分は知りません」といった。下町でもお化け煙突はもう忘れられているのだろうか。
舎人町のはずれ、埼玉県と東京都の県境のところで車を降りた。埼玉県側には武田製薬の建物がある。東京都側には、自動車の修理工場らしいのがある。あとはだだっぴろい通りが走っているだけで、郊外というより新開地という感じがする。畑のあとらしい空地、建売住宅、そのなかになぜか一軒だけある焼鳥屋、人っ子一人見えない。
そこから都心に戻る感じで百メートルほどいくと小さな河があった。毛長川とあった。昔は田園のなかの清流だったのだろうが、いまは住宅排水がひどいのだろう、汚れて、水も淀んでいる。
橋のたもとに、スイカとトマトとコーラ類の自動販売機を置いた小さな雑貨屋が一軒あった。よく農村で見かける、生活必需品がいちおう揃う店である。トマトを買って店先の椅子に坐ってかじった。店のおかみさんと話した。おかみさんはそのトマトはこの近くの畑でとれたものだといった。彼女によると -、
足立区はもともとは農業のさかんなところだった。とくに水田が多く、米がよくとれた。江戸時代は天領だった。新田が次々に作られた。この舎人町はそうした新田地帯の中心で、いまやドブ河のように化した毛長川は昔は、米や野菜を積んだ船でにぎわった。舎人町ではゴボウ市などもたった。
なるほどあとで足立区の資料室で資料を調べたら、昭和三十五年までは、米の収穫量は東京都第一位で一時は三万俵を越えたこともあるという。それが高度成長後の都市化で農地は急激に減っていく。昭和三十五年には千四百六十二人いた専業農家人口は昭和六十年にはわずか四十七人と激減している。足立区には農協がいまでも残っているが農協はいまや農業協同組合というよりは金融機関である。
雑貨屋のおかみさんと別れて、見沼代親水公園というところに行ってみた。ここは小さな人工の河が一キロ以上流れる、細長い水の公園である。昔はこのあたりは農業用水がいたるところに走っていた。そのなかでもとくに大きかったのが見沼代用水だった。都市化によって用水はなくなってしまったが、そのあとを利用して作られたのがこの水の公園だという。
河、というより細長い人工の池にはコイが放たれている。いかにも作りものの公園だが、それでも子どもたちはここを一種“解放区”のように楽しんでいて、水遊びをしたり、人工の滝にうたれたいしている。ザリガニまでいるらしく、スルメの足をエサにしてザリガニを釣り上げている。こればかりは昔も今も変らない。
足立区というと銭湯中心の路地の町というイメージが強かっただけにこのザリガニ取りの風景は意外だった。
公園を抜けて歩いて東武線の竹の塚に向かった。バス停を見ていると竹ノ橋、観音橋、はんの橋、西門寺橋と橋の名前が多い。新田、新里、新道という名前もある。もちろんいまはもう用水も畑も橋もない。かわりにあるのはいたるところに見える団地である。足立区は都内でもとりわけ団地の多い区と聞いた。
お化け煙突にかわっていまは団地が足立区のランドマークになっているのかもしれない。