(巻二十二)へろへろとワンタンすするクリスマス(秋元不死男)

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5月13日月曜日

一日中うちに籠っておりました。

掃除洗濯風呂掃除では句はできませんなあ。

食事の量、特に肉を減らしてくれと云い続けてきたが、やっと少なくなってきた。
酒の量も下がって来たし、煙草も吸わなければ吸わないで苦ではない。
物を消費することから得る楽しみは減った。
随筆を読み、BBCで耳の訓練をし、そして駄文を綴っていればそれで幸せでございます。



車谷長吉さんの

「世捨人の文学 -車谷長吉新潮文庫 百年目(新潮文庫編集部編) 

をコチコチしておりますので、今宵は車谷長吉さんと酌むことにいたします。

車谷さんの

女知り青蘆原に身を沈む(車谷長吉)

を書き留めてごさいます。
そうね、神秘不可思議が喪われるね。



「カメラで散歩」というグループに入れていただいた。わざわざ撮りに行ってはならぬ、が原則のようです。まことによろしいですな。
“ふと”散歩に出かけて“ふと”何かをする。散歩には“ふと”がよろしい。


東海林さだおさんのエッセイにそのこと書いてがございまして、私は“ふと”を遵守しております。

「爽やかに散歩シーズン開幕 - 東海林さだお」文春文庫 タコの丸かじり から
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春先は、一年を通じて散歩にもっとも適したシーズンである。
”散歩開幕”。
プロ野球は、開幕までに、自主トレやら山ごもりやら、オープン戦などがあるが、散歩はいきなり”開幕”である。
足腰を鍛える、バーベルで筋力をつけるなどの準備はいらない。
特殊な技術もいらない。
それほどの技術はいらないが、強いていえば、右足と左足をいっぺんにではなく、交互に繰り出していくというのがコツといえばいえるかもしれない。
散歩は一年中楽しめるものであるが、特に春先がいい。ポカポカ陽気の中を、何の目的もなくブラブラ歩くのは楽しい。
厳寒の冬、目も開けられないような、横なぐりの猛吹雪の中の散歩は楽 しくない 。
一歩間違うと、「八甲田山死の行軍」となって行き倒れになる恐れもある。
真夏の散歩も汗だくになる。
秋の枯葉を踏んでの散歩もわるくはないが、春先の散歩とは少し趣を異にする。
散歩はやはり春先がいちばん。
よその家の庭先の、ようやく咲き始めた梅や桃の枝ぶりを見あげながら、ブラブラ歩いていくのは楽しい。
ただしこの場合は、歩行速度と電柱に気をつけたい。
枝ぶりを見あげながら、足早に歩いて行って電柱に激突、転倒、意識不明、救急車出動、三日後その電柱の根元に花束とお線香、というような事態は避けたい。
散歩には、服装と足ごしらえが大切である。三つ揃いのスーツにエナメルの靴というのは、どちらかというと散歩には向かない。
手には何も持たないこと。
何かを持っていると、それが気になって散歩が楽しめない。
せいぜい手帖にボールペンぐらいにとどめたい。特に”ネジ回し”は持たないほうがいい。昼日中、人家の中の路地をあちこちウロウロ徘徊するのであるから、不審尋問など受けた場合は非常に不利な状況となる。
髪などもきちんととかし、良民としての節度を保ちたい。
蓬髪(ほうはつ)、垢面(こうめん)、幣衣(へいい)、破帽(はぼう)、ゴザなどかかえての散歩はむろんいけない。
目的を持たないことも大切である。
「ついでに買い物を」
などと家の者にメモなどを渡された場合は、その内容をよく検討しよう。「納豆、油揚げ」ぐらいならいいが、「豆腐三丁、豚コマ四百グラム、砂糖二キロ、味噌三キロ、キッコーマン二リットルビン、お米ササニシキ十キロ」などとあった場合は、ただちに散歩を中止しよう。
ただし、散歩の途中、ふと買いたくなる、というのは一向にかまわない。
本屋の店先などで、ふと新刊本を目にして購入し、それを懐に散歩を続けるというのは、かえって散歩の気分が盛りあがる。
しかし古本屋の前で、ふと目にした「森鴎外全集全26巻」を購入する、というのはさしひかえたい。その後の散歩が二宮金次郎になる。
散歩の途中の「ふと」は大切にし たい。
花屋の店先で、ふと、立ちどまって花を見る。
今川焼屋の前で、ふと、立ちどまって今川焼が焼かれていくのを見る。
いかにも散歩の興趣を増してくれる。
しかし、不動産屋の前で、ふと、立ちどまり、「山林3ヘクタール、山梨県、事情為換金惜譲早勝」などの物件に興味を持ち、中に入って問いただす、というようなことはしてはならない。話が込みいって、午前中いっぱい不動産屋から出られなくなる。
散歩の途中、何か食べたくなるということはよくある。
この場合、そば、串だんご、お汁粉などの軽いものにとどめたい。
サバ味噌煮定食、ラーメンなどは、なぜか散歩には向かない。フランス料理のフルコースというのもこの際避けたい。
飲み物だったら、コーヒー、昆布茶、牛乳あたりが無難である。
焼酎、赤まむしドリンク、ユンケル黄帝液などは、別の機会にゆずりたい。
散歩にもいちおうの決まりはある。
時間にして一時間、距離にして二キロ、経費にして千円以内、というのが散歩の規模としては適当である。
JRの一区間がだいたい二キロである。
きのうは、仕事場のある西荻窪から吉祥寺まで歩いた。
途中、一軒一軒、家の造り、庭先の様子などを見ながらブラブラ歩いた。古びた家もあれば新築の家もある。
古い家をこわし、そこに建て売りを四軒強引に建てた、というような家が最近は多い。
一軒一軒が敷地ギリギリいっぱい、駐車場どころではないという家である。
駐車場どころではないはずの敷地内に、あらゆる無理、難題、道理を越えて、ちゃんと車が止めてある。
車の占める面積より、どう見ても止めてある面積のほうが狭いのに、車が一台、何事もなかったかのように収まっているのである。
ここに至るまでの難行苦行は、想像にあまりある。
どのような運転技術の持ち主か、ぼくはその家のインタホンを押して主人に面会を乞い、苦心談を聞いてみようと思ったくらいである。
古い家は思いきり古い。
大正時代の民家そのまま、木造羽目板、塀は植木の植えこみに竹垣、竹垣の上には長靴の逆さ干し、玄関には万年青(おもと)の鉢、万年青のまわりには卵のカラ、という、いまだにサザエさんしている家もある。
住宅街のはずれに、まるでやる気のないそば屋があった。
店頭の食品サンプルは、すっかり陽にやけて色あせ、ザルソバにも天丼にもうっすらとホコリがかぶっている。
もうかれこれ、十年はこの中を掃除していないはずだ。片隅にはクモの巣、底面のベニヤはまくれあがり、クモの巣の主も嫌になってどこかへ行ってしまったという、やる気百パーセントなしの店である。
「こういう店こそ、散歩の途中の食事にはふさわしい」とぼくは思った。
散歩に疲れ、やる気のない店の片隅でひっそりととそばを食う。わるくない風情ではないか。
ガタピシと戸を開けて中に入ると、「何事か」という表情で店の主人が奥から出てきた。思ったより若い、四十前半という主人である。
しかし客が来たのに「何事か」はないだろう。
天ぷらそばを注文すると、主人は「迷惑この上ない」という表情で奥へひっこむのであった。
ぼくはタバコに火をつけ、「何も期待しない」という表情でそばの出来あがるのを待った。



永井荷風も“ふと”何かを感じることはあるようで、『雨瀟瀟』のなかの一節で“不図[ふと]”と漢字で書いてある。

《その頃のことゝ云つたとて、いつも単調なわが身の上、別に変つた話のあるわけではない。唯その頃までわたしは数年の間さしては心にも留めずに成りゆきの儘送つて来た孤独の境涯が、つまる処わたしの一生の結末であらう。此れから先わたしの身にはもうさして面白いこともない代りまたさして悲しい事も起るまい。秋の日のどんよりと曇って風もなく雨にもならず暮れて行くやうにわたしの一生は終つて行くのであらうといふやうな事をいはれもなく感じたまでの事である。わたしはもう此の先二度と妻を持ち妾を蓄へ奴婢[ぬひ]を使ひ家畜を飼ひ庭には花窓には小鳥縁先には金魚を飼ひなぞした装飾に富んだ生活を繰返す事は出来ないであらう。時代は変つた。禁酒禁煙の運動に良家の児女までが狂奔するやうな時代に在つて毎朝煙草盆の灰吹の清きを欲し煎茶の渋味と酒の燗の程よきを思ふが如きは愚の至りであろう。衣は禅僧の如く自ら縫ひ酒は隠士を学んで自ら落葉を焚いて暖むるには如[し]かじと云ふやうな事を、不図[ふと]ある事件から感じたまでのことである。》