1/2「風景について - 深田久彌」中公文庫 わが山山 から

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1/2「風景について - 深田久彌」中公文庫 わが山山 から

優れた自然、ことに山岳の美しさを一度でも知った人は、その美しさを再現しようとする人間の試みに決して充分な満足はしないだろう。
例えば山岳を写した絵画にしても、どんなに巧みに描かれてあっても、その実景から得た感動の万分の一も受け取れない。よく山の絵の展覧会など見にゆくが、たいていは失望して帰って来るのが常である。本当の山の景色をしっている人にはひどく物足りないのだ。
山の風景を描写した文章についても同じことが言える。実際の景色を知っている人には、そこがどんな名文で描写されていようとも、はなはだ食いたりない感じがする。僕は山が好きなので、山に関する文章は眼にふれる限りたいてい見逃さずに読んでいるが、風景を描写した記述にはやはりあき足らない。これは人間の才能が低いというより、むしろ自然の迫り方があまり大きいので、これをそのまま再現するということは不可能なのであろう。
それでも僕などはその記述を手がかりにして本当の景色を空想することが出来るが、実際の景色を知らぬ人は、その描写だけが唯一のたよりだ。その人たちはその描写以外に、実際の風景についての空想を持っていない。だからこういう人たちはよく、登山家の文章は誇張が多いとかあまいとか言う。ところが登山家にしてみると、なかなかどうして、むしろ誇張が足りないくらいに思われるのだ、つまりそれくらい自然の迫力が大きいのだ。
これについて志賀直哉氏が『創作余談』の中に面白いことを言っている。氏の『焚火』という短篇の前半は赤城山で書かれたのだそうだが、赤城で書いたときにはいかにも書き足りない気がして中途で止めてしまったそうだ。そしてその後半を四、五年して我孫子で書き足して発表された。するとその後、氏の若い友達が実際に赤城へ行ってその帰りの話に「焚火は好きなものでいいと思ってゐましたが、赤城へ行つて読むと何だか非常に物足りない気がしました。どうも書き足りないやうに思ひました」つまり実際の自然に接すると、どんなに巧い描写でも何かもの足りない気がするのだ。それほど自然の迫る力が大きいのだ。志賀直哉氏は続けて次のような例をあげて居られる。
氏が山陰地方のある名所を見に行く途中、小泉八雲のそこを書いたものを読まれたそうだが、その書き方がいかにも誇張しすぎているように思われて満足出来なかったそうだ。ところが実際その場へ行ってみると、それほど誇張してあっても、それでもまだ足りないくらい自然から受ける感じが強かったという。「そして自然から迫られるだけにそれを強く現さうとするのは大変な事だと思った」と付け加えられている。
すぐれた自然風景を絵画や文章などで写し出すことのいかに困難なものかを示すものものっあろう。
写真などについても同じことが言える。なるほど写真は実景をそのまま写し出してはいるが、山の景色ど一番感動的な量(ボリューム)の感じを出すことは難しい。それに風景というものは、単に形と影だけでなく、その時の静けさとか推移とか、そういうものが微妙に影響するものである。近頃上手な写真はそういう感じを現すことを狙っているようではあるが、とうてい実際の風景に接したようなわけにはゆかない。そういう写真をいいなと思うのも、やはりかつて見たことのある見事な景色を心に思い浮かべ、その想像で補いをつけて感心する場合が多いのである。
だから同じ写真を見ても、よく山を知っている人と知らない人とでは、その感じ方に随分深浅があるように思われる。やはり心に豊富な映像を蓄えている人は、それだけ鑑別の眼も高いに違いない。
例えば骨董なども、よい物を見る数が多ければ多いほど鑑賞の眼が肥えるそうだが、風景もまた同様だ。山登りの好きな人たちは素晴らしい景色をたくさん見ているから、風景鑑賞では玄人と言っていい、風景鑑賞の玄人は、素人の好きそうなパッとした表面の美しい景色に倦(あ)いて、次第に渋みがかった落ちついた景色が好きになるようだが、これは何の専門であれその道に深入りした人の必ず赴くべき道程であろう。例えば文学にしたところで素人はうわべの華やかな通俗小説が好きだが、だんだん文学の素養をつんでくるとそんなものには倦きたらなくなって、もっと渋い高尚な小説が好きになってくる。おそらく一般の人に滝井孝作氏や嘉村磯多氏の小説を読ませても、誰もそのいい所はあまり判らないだろう。それほど表面的な面白さのない渋い小説なのだ。同様に登山家が感心するような、例えば一見何でもないように見えてその中におちついた渋い味を含んでいる渓谷とか森林の風景を、一般の山の素人に見せても誰もそのいい所は判ってくれないだろう。