2/2「風景について - 深田久彌」中公文庫 わが山山 から

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2/2「風景について - 深田久彌」中公文庫 わが山山 から

いつか、わが文壇では鋭い批評家として聞こえている、ある老大家の随筆集を読んだことがあったが、その中に、ある風景を見て天下の絶景と賞賛されている文章があった。その風景は僕もよく知っているが、ただ上っ面な美しさだけで、登山家から見たら屁の河童のような景色である。当代随一の辛辣な文芸批評家の眼も、風景に対してははなはだあまいと言わねばならぬ。一般に文学者どもは、登山家の文章はあまいなどと生意気なことを言うが、彼等の風景鑑賞眼こそ少女小説みたいにセンチメンタルなのである。自動車で見下ろせる渓谷や、発動汽船で渡れる山の湖水に感心していて、登山家の感激癖がどうのこうの言えた義理ではないのである。
つまり風景にも、素人好きと玄人好き、通俗的と非通俗的の差別があるのである。絵端書(えはがき)と土産物を売っている風景はたいてい通俗的で、登山家があまくならざるを得ない文章で賞めている景色はたいてい非通俗的である。ただし、富士山の如きものだけは例外である。あれは高尚にしてかつ通俗性をも含んだ、例えば大ゲーテの如きものであろう。
先日、ニーチェを読んでいたら次のような文句に出あった。
「ただ知識だけで、ことに地理学的な知識だけで意義があるような、しかしそれ自体は審美的意義に乏しいような、そういう自然美は私は嫌いだ。ジュネーブから眺めたモンブランの如きはその一例である。景色そのものはつまらない。ただ観念的な知識のなぐさめがあるばかりだ。むしろそれより近い山山の方がずっと美しい。ところが分からず屋たちは、ただそれらの山山が高くないというだけの理由で、無視しているのである」
わが国にもこういう分からず屋の風景鑑賞家がたくさん居はしないか。ただそれが高いとか嶮しいとかいうだけの理由で、風景に感心している人が随分多いように思われる。例えば神河内[かみこうち](本紙の山岳欄がこの頃上高地と書かず神河内と書いているのは賛成だ)へ行った人はたいてい穂高や焼岳ばかり見上げて感歎している。それほど穂高や焼岳が知識の上で有名になっているからである。もちろん穂高の眺めは決して悪くはないが、しかしそれにも劣らず美しい六百山や霞沢岳に注目して感心する人はごく少ない。そういう山の存在さえ知らずに帰ってくる人さえあるようだ。焼岳なんてただ煙を噴いているというだけの理由で、六百山や霞沢岳よりも重んじられているのは、ニーチェのいわゆる、風景の知識的意義ばかり重んじて、審美的鑑賞がいかに忘れられているかを示すものであろう。
立山から後立山連峰を眺める景色は実に素晴らしく、あの長く裾をひいた鹿島槍や、根ばりの雄偉な五竜岳など、いくら見ていても倦きない。ところが人人の眼は直ぐその二つの山の間を探っている。そして「ああ、あれは八峰[はちみね]キレットだ」と、大したところでもないそればかり眺めて感心している。やはり風景の知識的意義ばかり重んじている一例であろう。
風景を純粋に審美的に鑑賞する人は案外少ないのかも知れぬ。何か紀行文を読んでその中に賞[ほ]めてある風景には風景には、一も二もなく感心せねばならぬといった風な観賞法がかなり多いのではないかしら。実際、今までに随分人に賞められて名高くなっている所へ行ってみて、何だつまらないと思う場合が少なくない。
逆に、今まで平凡な景色として誰にもあまり顧みられなかった風景の中に、本当の美しさを見出だした人は偉いと思う。明治以来の日本山岳会の先輩たちがそうであった。今までわが国の美しい風景といえば、白砂青松とか、曲汀何とか浦とか、そういう美辞麗句式な景色ばかりだった。谷川を賞めるにしても、南画風な佶屈[きつくつ]たる岩が峙[そばだ]ちその上に格好のいい松が一本枝をのばしているといった風な景色に感心してきたのである。ちょっと見たところ何の変屈もない高原や渓谷には誰も眼をくれなかった。ところが山岳会の先輩たちによって、そういう高原や渓谷の本当の美しさが見出されてきたのだ。神河内を見出した人、尾瀬を見出した人、奥秩父の渓谷と森林を見出した人、そういう人たちの啓示によって、若い登山家たちの風景鑑賞眼も養われてきたと言っていい。地元の人たちも今までは仕様のない荒地か草刈場くらいに思っていた土地が、そんなに景色がよい所なのかと初めて眼がさめたように驚いて、にわかに開発に力を入れ出すといった調子だ。
僕は本職が文学なので、この文章では何かというと小説を例に出して恐縮ではあるが、例えば小説について言っても、明治中期までは枕言葉とか掛かり結びとかいったような美文調の小説が多かった。それが近年になって自然主義などが唱えられ始めてから、そんな形よりも本当の人間性を見出すということが重大になってきた。そして新しい小説が展けてきた。絵画の方でも似たようなことが言えるのではないかしら。今までは昔からのお手本にあるような型に嵌った見方ばかりしてきたのに、近年になってからもっと自由にありのままの美しさを見出して描くという風になってきたのではないかしら。言い方は大まかだが、確かにそういう点があると思う。
そういう風に芸術が進歩してきたように、風景鑑賞も確かに進歩してきたのだと思う。昔からの先入観念に捕われずに、本当のありのままの風景の美しさを見出してきたのだと思う。そして今まで価値のない所としてうっちゃられていた所に、本当の風景の美しさを発見してきたのである。
(一九三四年八月「国民新聞」)