1/2「ポスト大衆社会論の構図 - 上野千鶴子」ちくま学芸文庫 〈私〉探しゲーム(欲望私民社会論) から

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1/2「ポスト大衆社会論の構図 - 上野千鶴子ちくま学芸文庫 〈私〉探しゲーム(欲望私民社会論) から

このところマーケッターたちの間で、「大衆・小衆」論がさかんだ。電通藤岡和賀夫さんが『さよなら、大衆』(PHP、一九八四年)という挑発的なタイトルの本を刊行して一石を投じて以来、博報堂の研究グループがただちに『「分衆」の誕生』(日本経済新聞社、一九八五年)でこれに応じた。他方で経済学者の西部邁さんが『大衆への叛逆』(文藝春秋、一九八三年)であえて「大衆社会論」を世に問い、山崎正和さんは『柔らかい個人主義の誕生』(中央公論社、一九八四年)で大衆の変貌を「顔の見える大衆社会」として論じた。これに学者、文化人、マーケッターたちの反論、批判、応酬が参入して、時ならぬ「大衆社会論」ブームなのである。
もちろんこの「大衆社会論」ルネサンスは、六〇年代のアメリカ流大衆社会論のたんなるリバイバルではない。むしろ「大衆社会は変貌したか?」 - 言いかえれば「大衆社会は終わったか?」「大衆は分解して小衆になったのか?」 - という問いをその根幹に据えている点で、内実は「ポスト大衆社会論」とでも言うべきものである。
「大衆・小衆」論が主として消費社会を対象としてマーケッターたちの間で闘われたのもおもしろい。「当たるも八卦、当たらぬも八卦」でどちらにころんでもしょせんフトコロの痛まない学者に比べれば、マーケッターたちの関心はより切実だからである。彼らの問題意識は、六〇年代高度成長期までのマス・マーケットが、成熟消費社会の中で成り立たなくなったという危機感に根ざしていた。
大衆はほんとうに消滅したのだろうか? - 解釈のしかたは三とおりくらいある。
第一は、「大衆」もしくは「社会」の方は少しも変貌していない、変わったのは「解釈装置」の方だという可能性である。一九五〇年にリースマンが『孤独な群衆』を著わして以来、「砂のゆうな大衆」イメージはすっかり定着したが - その病理形態が「貴族主義的」大衆社会論のとらえる、互いに連帯はしないが模倣しあって一方向になだれこむ「暴徒のような大衆」イメージである - その見方は「集団は個人から成り立っている」という近代主義のタテマエを、額面どおり信じこんだ社会科学者の方の“まちがい”で、近代になってからだって人間は一度も「個人」になんぞなったことはなかった、という説である。「大衆」がのっぺらぼうに見えたのは「知識人」にとってだけではなかっただろうか。この「個人」は一度も「家族」から剥き出しにされたことはなかったし、フォーマル、インフォーマルな小集団の中にベッタリ生きていて、都会に出たら出たで、さっさとマチや企業にムラを作ってしまった。
山崎正和さんは「産業化時代の三〇〇年を通じて、われわれは一方に硬い戦闘的な生産組織を持ち、他方には漠然とした、隣人の顔の見えない大衆社会を持って、その中間にあるべき人間的な集団をまれにしか知らなかった」(山崎、前掲書、九四頁)と書く。氏の表現をもじれば「漠然とした大衆化社会しか知らなかった」のは、実を言うと「大衆」の方ではなくて「社会科学者」の方だったのじゃないだろうか、という疑いがきざしてくる。西部邁さんは、「知識人の使命」とばかりに爛熟消費社会の「義憤」を表明しているが、これも何やらありもしない幻影を作り上げて、ワラ人形狩りをやっているんじゃなかろうかという気がする。山崎さんは「われわれが予兆を見つつある変化」」が「大衆社会」に起きているというが、その「変化」はようやく「大衆」をとらえる枠組の方に起きていると言いかえてもいいのだ。「いじめ」の問題などは、私たちが逃げることもおりることもできない「顔の見える大衆社会」 - ただし「柔らかい」どころか「硬い」 - にどっぷり漬かっていることの証拠なのだから。
第二は「大衆消費」はたしかにオープン、ただしそれは消費者のサイドの変化によってではなく、作り手のサイドの変化によって引き起こされた、とする考えである。このコロンブスの卵のような説を唱えているのは、日本長期信用銀行エコノミスト(当時、現在東京工業大学助教授)、小沢雅子さんである。彼女によれば、高度成長期のマス・マーケットは、ただ一品種大量生産しかできないメーカーサイドの技術的制約によっていたと言う。消費者ニーズはもともと多様なものだが、かつては生産水準がこの多様性ニーズに追いつかなかった。技術革新によってメーカー側が「多品種少量生産」というフレキシブル・マニファクチリング・システムを導入するようになってはじめて、潜在的な多様化ニーズが顕在化した、とする。考えてみれば工場制生産以前は、どんなモノも、一点一点注文製作だったのだから、個別化対応は当然だった。流行現象はあったものの、江戸時代だって「柄ドメ」に見られるように「みんなと一緒」をきらう消費者の差別化志向はあったのだから、マニファクチュアもここに至ってようやく「前近代なみ」に到達したか、ということになる。メーカーサイドは生産管理も流通管理も煩瑣になる一方だとぼやくが、逆に考えてみればマス・マーケットの成立した時代の方が、過渡期の異常な時代だった、というふうに考え直すこともできる。
 

(巻二十五)非常口に緑の男いつも逃げ(田川飛旅子)

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(巻二十五)非常口に緑の男いつも逃げ(田川飛旅子)

3月31日火曜日 

誰にでも一度はあらむ今生の

終の桜と知らず見る花(前田良一)

朝一番で生協に米を買いに行き、途中で桜をしっかりと見ておきました。

米は二キロの袋が無く、五キロの無洗米を買いました。何かの事情で、米不足と云うことではないでしょう。

ある区議の広報ビラによれば5年後には葛飾区の住民の四割が高齢者になるとあった。生協にも老人が買い物に来る。あたしはまだ五キロの米をぶら下げて持ち帰れるが、ちょっとした買い物をカートに入れてやっと押して行く姿を見かけることがある。自分で運ぶにはどうしても二キロが欲しい老人はいるだろうなあ。

あと何年生きるのかは分からないが、生きていれば五キロが運べない日はあたしにもやって来る。

自らを頼む明け暮れ年新た(楠元輝子)

話をする相手は細君だけという生活ですが、人と接触しないという日々は悪くはありません。この環境で行けるところまで行ければ、それはとても幸せなことだと思います。

社会との関わりが切れれば社会的には存在しないことになりますが、それを終活というのでしょう。存在していたことさえ忘れて終わりたいあたしには心地好い。

月花や四十九年の無駄歩き(小林一茶)

これから先には暗く切ないことが待ち受けているが、今日は無事に過ごせた。細君とテーブルに向かい、新聞の広告にあった『大河の一滴』を話題にしながら、湯気の立つ汁とご飯をいただき、温かい風呂に入り、布団にくるまった。

天国と思ふ布団の中にいる(高橋とも子)

(読書)

「なぜかふと心が萎える日に - 五木寛之幻冬舎文庫 大河の一滴 から

《 人間はだれでも本当は死と隣りあわせで生きている。自殺、などというものも、特別に異常なことではなく、手をのばせばすぐとどくところにある世界なのではあるまいか。ひょいと気軽に道路の白線をまたぐように、人は日常生活を投げだすことはありえないことではない。ああ、もう面倒くさい、と、特別な理由もなく死に向かって歩みだすこともあるだろう。私たちはいつもすれすれのところできわどく生きているのだ。 》

運転免許証ではないが、返納の手続きを簡単で苦痛のないようにして貰えないだろうか?

返納の決意の揺らぎ梅雨に入る(森岡喜恵子)

「甲の得は乙の損 - 邱永漢」中公文庫 金銭読本 から

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「甲の得は乙の損 - 邱永漢」中公文庫 金銭読本 から
今度、モンテーニュの『随想録』が装を改めて出版されたので、大枚を奮発して革張りの特製本を買った。『随想録』については古い思い出があるからである。
昭和二十年三月十日、東京の大空襲のあった直後、私は岡山県の片田舎にある友人の家に疎開してしばらく居候をやったことがあった。居候といっても私は働き者だったから、町人の家に生れた癖にたちまち牛を駆使して畝をおこすコツを覚え、昼間は野良で働き、夜は大学の卒業論文を書き、必ずしも肩身のせまい思いをしないで暮していた。その友人の家の書架に『随想録』があったのである。
今読みかえせばどうだかわからないが、何ら新発見らしい思想はなかったにもかかわらず、私はモンテーニュを愛読した。内容についてはほとんど忘れてしまい、わずかにモンテーニュが友愛を恋愛よりも信頼のおけるものとして重んじたことと、それからここに述べる「甲の得は乙の損」という短い文章が記憶に残っているのみである。
今度の新装版では「一方の得は一方の損」と当世風に改まっているが、その中でモンテーニュは、人の死によって利益をむさぼる葬儀屋を処罰したアテネ人デマデスの裁判が不当であると非難している。彼の非難の根拠は「どんな利得だって他人の損失にならないものはないし、そんな風に考えるとすべての利得を処罰しなければならなくなるから」である。たとえば「商人が繁昌するのはただ若者の浪費のためだし、百姓の繁昌はただ麦が高いためだし、建築家の繁昌は家屋が倒壊するためだし、裁判官の繁昌は喧嘩訴訟のためである。聖職者の名誉と業務だって、我々の死と不徳から生ずるのだ。“医者は健康がきらいで、その友人の健康をさえよろこばない。軍人は自分の町の平和をさえよろこばない”と古代ギリシアの喜劇作者は言った。その他何でもそうである。いや、なお悪いことには、皆さんがそれぞれの心の底をさぐってごらんになるとわかるが、我々の内心の願いは、大部分、他人に損をさせながら生れ且つ育っているのである。そう考えるうちに、ふとわたしは、自然がこの点においても、その一般的方針にそむかないことに気がついた。まったく物理学者は、もろもろの物の出生、成長、繁殖は他のものの変化腐敗であると説いているのである」。
人間と自然界の他の生物との間ならこの法則はあてはまる、と当時の私は考えた。しかし、人間と人間の間では、富の分配が公平に行われるか、もしくは新しい富の創造が行われる場合には必ずしもあてはまらないのではないかとも考えた。人間の善意を信じたがる、いくらか理想に燃えた青年としては、むしろ当然の考え方かも知れない。
けれどもだんだん多くのものを見、経験を積むにつれて、甚だ残念な話だが、どうもモンテーニュの考え方に次第に近づいて行く。まず第一に、富の公平な分配など到底あり得ないことがわかる。簡単な話が、一律に平等な給料はあり得ないが、仮にあれば、怠け者が得をして働き者が損をするし、地位によって差等をつけても、地位そのものが能力に比例するものでない以上、地位のある者が得をすれば、能力が地位をともなわない者は損をする。それなら能力に合わせればよいかというと、もともと能力は千差万別で金銭をもって測定出来る種類のものでないから、これも出来ない相談である。
次に新しい富の創造が行われれば、社会全体に利益をもたらすように見えるけれども、ひとつひとつの例をとると、いずれもこの期待を裏切る。たとえば、豊作は今日のような食糧制度の下では、農家の懐具合をよくするけれども、ヤミ米の下落によって相殺されるし、職人やサラリーマンは一応助かるけれども、ビルマやタイの農民は困ってそれだけ日本製品を買う能力を失うから、たちまち日本の工業製品の輸出に影響してくる。また豊作によって米を食べる人がふえると、パン屋は事業不振におちいってしまう。またたとえば電気釜のような今までになかったものが出来ると、人々は便利にするけれども、従来の釜をつくっていた工場は生産がなりたたなくなるし、ナイロンやレイヨンが現れると、西陣や桐生の絹業者が没落してしまう。ではナイロン業者からとり立てた税金で絹業者を救済すればよいかというと、これでは新しいものを創り出した人々に対して不公平であろう。
かように、すぐれた技術も才能も、常にそれを持たないものの犠牲によってはじめてその真価を発揮出来るものである。今日、平等という観念は、自由という観念とともに、人間生活の至上命令とされているけれども、自由は常に平等を犠牲にし、反対に平等は常に自由を犠牲を要求する。そして、誰かに損をさせなければ、誰かが得をすることもなく、誰かが得をしなければ、世の中に進歩はあり得ないから、社会組織がいかように改変されようとも、この原則にはいささかの変わりもない。
今に始まったことではないが、よく世間には「百万円ためる法」とか「金儲けの秘訣」とかいった書物が出版され、誰しも金儲けには興味があるから、そんな本がよく売れたりする。売れれば、書いた本人は金が儲かるが、仮に本の教えるところに従って養鶏によって百万円ためようと考える人が多くなれば、卵の相場が下落して予想外の損失を招くであろう。また食品株は不景気に対して抵抗力を持っているからそれを買った方がよいと株屋にすすめられて皆が食品株を買えば、食品株の利廻りが低くなり、逆に株価の下落を招くであろう。そして、全く予期に反して、船株が三倍に騰貴するかも知れないのである。では「経済の事情に明るくない素人は、経済の事情に明るい玄人に任せれば間違いない」という宣伝に乗って投資信託に金を投ずれば大丈夫かというと、玄人だって経済界に対して確固たる見通しをもっているわけではなく、玄人中の玄人たる大証券の社長が自殺した例さえあるのだから、これとてもあまりあてにならない。
こんなことをいうと、小金をもったばかりに途方に暮れてしまう方があるかも知れないが、私のいわんとするところは、「甲の得は乙の損」だから、金儲けをするなら皆と同じことをやらない方がよいということ、もしくは人の裏をかく必要があるということである。一般に金儲けは、その安全性においていくらか優れている場合もあるが、馬券を買う要領とそれほど大差はないものである。

(巻二十五)敬礼の上手と下手は生まれつき(藤後左右)

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(巻二十五)敬礼の上手と下手は生まれつき(藤後左右)

3月30日月曜日

よく眠れた!久しぶりだ。よく眠れたことには感謝するが、目覚めてしまったことは残念である。

こときれてゐればよかりし春の夢(上田五千石)

あたしがいなくなっても誰も困りも悲しみもしない。細君は年金収入が減るが制度が存続していて、世の中がひっくり返らなければなんとか生きていけるだろう。制度が破綻して世の中がひっくり返ればあたしが生きていようがいまいが生きては行けまい。

悲観論者の弱者としてはそのような目に遭う前に身の始末をしてしまいたい。

身の始末念頭にして霧を吹く(土屋秀夫)

(散歩と買物)

散歩日和ではないが外に出てみた。コンビニにメンチカツは無くコロッケで間に合わせた。一晩経ってしまうとそれほど食べたい物ではございませんでした。

薄味に慣らされているのでソースをかけなくても十分に塩辛いコロッケでした。味覚は鈍っていないのでまだ罹患してはいないのではないかな?

生協に寄り米を買う予定でしたが、指示された二キロの無洗米がなく、止めておきました。五キロの袋はふんだんに在りましたが、細君は心配になったようで明日も二キロが無ければ、五キロを買うことになりました。

久しぶりの昼の酒が効いて快適な昼寝が出来ました。至福であります。

志村さんは苦しんだのだろうか?

今のところ死亡者が出ると首長が記者会見までやるようだ。志村さんの治療にも全力が尽くされたのだろう。

だが、やがて、死亡者はニュースでなくなるだろう。

そういう状況の中で死ぬことになれば苦しむのだろうなあ。やはり垂れ流しで死んでいくのだろうなあ。

早く逝った方々は後から逝く見捨てられた大勢よりは幸せだったということになるだろうなあ。

予測みな当たる淋しさ衣被(渕上千津)

それでも、まだ、それまでに食っておきたいものが浮かばない。

(読書)

「めぐりあい-畏友「彼」 - 遠藤周作集英社文庫 お茶を飲みながら から

を読みました。

《 十数年前、私が大病を患い、三度目の手術を待っていた時、見舞いにきた彼はしばらく黙っていたが、急にこう呟いた。「あとは引きうけるし、祈っているから万一のことがあっても、安心して死んでくれな」

私は黙っていたが、決してその言葉を聞くのは不快でも苦痛でもなかった。むしろ神父である彼の口からそれを聞いた時、ふかい友情を感じた。人と人とのめぐりあいを今の私は偶然の出来事とは思っていない。人と人とのめぐりあいの奥に、我々をこえた神秘な意志が働いていると考えざるをえない。昭和二十五年、暗い四等船室で彼と会ったことは、私の人生に大きな痕跡を残した。彼の名は書かない。そういうことを嫌がる神父だからである。》

佐藤紅緑の死の床には菩薩が来てくれたらしい。遠藤さんには神父さんがいたであろう。

かと云って、信心は今更ながらである。あの世はないことに決めているし。

岸田秀に依れば死の恐怖から逃げるには自己を抹消するしかないらしい。茂吉のようにボケるのが手段だが、このままだと間に合わない。

座る余地まだ涅槃図の中にあり(平畑静塔)

「老人六歌仙 - 渋沢秀雄」文春文庫 巻頭随筆1 から

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一昨年(昭和四十四年)の一月に、私はNHKの「老後とは」というテレビ番組に出た。五人の老人が各自の仕事などを語ったのである。私も自分を老人だとは思っているが、「老後」と銘を打たれて見るとうれしくない。しかも同席した林タカシさんや東郷青児さんたちのなかで、残念ながら私が最年長だった。
そのとき私は仙ガイ和尚の「老人六歌仙」という歌を披露した。以前第一生命の矢野一郎さんにおそわったものである。すると私の宅やNHKへ、その歌を教えてほしいという注文が数通きた。注文主はみな老人で、反省の資料にしたいというのである。私は歌を写して未知の人たちへ郵送した。
昨年の十月早々、私はNHKラジオの「早起鳥」で、また老人六歌仙を披露した。するとそれから半年ほどのあいだに、十通以上の問いあわせがきた。そこで私は新しい未知の人たちへ、またそれを書き送った。
その少しまえに、私は丸の内の出光美術館で「仙ガイ展」を見た。酒脱[しやだつ]な俳画などが多い。むろん老人六歌仙の直筆も展示されていた。細字で読みにくかったが、カタログには活字で印刷してある。旧仮名づかいで濁点が打ってない。それによると私がテレビやラジオで放送した歌には誤りがあった。そこで私は正しい六歌仙を新仮名に改め、濁点を打って分かち書きにした。
一 「しわがよる ほ黒が出ける 腰まがる 頭がはげる ひげ白くなる」現実曝露の悲哀で、身につまされることばかりだ。若い読者にはぜんぜん関係ないと思うだろうが、若者も生きている限り老人にならざるを得ない。先物を買うつもりで、味読していただきたい。
二 「手は振るう 足はよろつく 歯は抜ける 耳はきこえず 目はうとくなる」いよいよ心細くなってきた。老いが身にしみる。
三 「身に添うは 頭巾襟巻 杖目鏡 たんぽ(湯婆)おんじゃく(温石)しゅびん(溲瓶)孫子手(麻姑の手)」頭巾襟巻杖もナイトキャップ、マフラ、ステッキと呼べば、いくらか若返って聞こえる。目鏡はむろん老眼鏡だ。
ところで足の冷える私は、秋の末から湯タンポのご厄介になる。温石は今の懐炉だ。私も寒中には溲瓶を使う。温かい寝床から、急に冷たいトイレへゆくのは、高血圧の人には危険だという。私は高血圧でないから危険は少なかろうが、それでも蒲団からでずに用が足せるのは有りがたい。不精者には溲瓶さまさまである。
四 「聞きたがる 死にとむながる 淋しがる 心は曲がる 欲深うなる」どうも哀れだ。「聞きたがる」は知識欲旺盛の意味ではなく、この場合は自己中心的好奇心を指すのだろう。そして「欲深うなる」も、事業欲みたいな規模の大きなものではなく、俗にいう「死に欲」の類と見るべきだと思う。 
五 「くどくなる 気短になる 愚ちになる 出しゃばりたがる 世話やきたがる」くどくどなるから簡潔な言動を物足りなく感じる。気短だからカンシャクをおこさやすい。愚痴っぽいのは、事物の短所ばかり見るからだ。出しゃばり、世話やき、共に相手の立場や思惑[おもわく]を無視する自己満足。老いたる相談役が社長時代の惰性で、余計なサシズをしたり、姑が嫁をいびったりするのも、おおむねこの心境のさせる業[わざ]らしい。
六 「又しても 同じ話に 子を誉める 達者自慢に 人はいやがる」記憶力の減退にはんぴれして、自己主張は強くなるから、同じ話を幾度もくり返す。酒に酔った人によく似ている。つまり年に酔っぱらうのだろう。そしてほかに自慢の種もないから、子や孫を誉めたり、自分の健康を誇ったりする。
以上の歌は本年かぞえどし八十歳の私にも、思いあたるフシが多い。ただし私は物欲も少なく、愚痴っぽくもなく、出しゃばり世話を焼いたりしないつもりでいる。そして歯は二本抜けただけであとは健全だ。沢庵でも煎餅でもバリバリ噛める、などと得意になるのは、それこそ「達者自慢に人はいやがる」だから、この辺でやめよう。
さて仙ガイ和尚(一七五〇-一八三七)は美濃の国に生まれ、臨済宗の寺で修業し、三十九歳のとき博多へいった。そして聖福寺の僧となって、後年同寺の住職となったが、晩年は寺の裏にある幻住庵内の虚白院に閑栖[かんせい]し、八十八歳で仏の国へ旅立っている。
昨年の十月下旬、私はその寺へ詣でた。境内が実に広大で、山門、仏殿、法堂、方丈、鐘楼など堂々たるものだった。
方丈の裏に白壁の塀に囲まれた幻住庵があり、塀越しの柿が枝もたわわだ。そして側に古び傾いた虚白院が、見る影もなく荒れ果てていた。八畳二タ間に玄関と小部屋が三つ。屋根瓦は崩れ、床も破れたまま。仙ガイ和尚は百四、五十年前、ここの一室で老人六歌仙を書いたのかもしれない。
と、樟[くす]の巨木から空いっぱいに百舌[もず]の高音[たかね]。地上では秋の日が紫苑[しおん]の紫をいとしそうに撫でていた。

(巻二十五)鍋焼の屋台に細き煙出し(富永ひさし)

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(巻二十五)鍋焼の屋台に細き煙出し(富永ひさし)

 

3月29日日曜日

 

どうしても積もる積りの春の雪(塚本一夫)

 

場末では雨で始まり雪に変わった。

 

外出せず。バイト予定先から電話があったがこういう状況なので様子を見たいとお願いした。先方も当分保留とすることで了解してくれた。先のことは分からない。

長生きしたいわけではないが、人混みで感染して、細君に移すようなことは避けたい。細君はまだまだ生きていたいと言っている。

細君から移されて、お陀仏ならそれは本望ですよ。二人で居ても生きていたくないのだから、もし一人で残されたらあたしゃ生きて行けません。

 

風邪うつしうつされわれら聖家族(伊藤白潮)

 

今日の朝日俳壇から、

 

世の中の人は全てが飛花落花(二宮正博)

 

を書き留めた。

 

俳句時評に、

 

冬晴やソース含めるメンチカツ(藤田哲史)

 

があり、メンチカツが食いたくなった。来週はどこかのコンビニのベンチでメンチカツで缶酎ハイと致そう。外なら大丈夫かな?一人だし。

 

アジフライにじゃぶとソースや麦の秋(辻桃子)

 

食べたい物とかしたい事が見付からないなかで、久しぶりの“したい”は、めでたいことであります。

「セントルイス・カレーライス・ブルース - 井上ひさし」ちくま文庫 カレーライス大盛り から

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セントルイス・カレーライス・ブルース - 井上ひさしちくま文庫 カレーライス大盛り から
戦争が終わって間もないころから昭和三十年代の初めごろまでの十数年間は、あのすばらしいストリップショーの黄金時代だった。
ここで云うストリップショーとは、現在おこなわれているような、観客の紳士諸君の下半身とヌードダンサーたちの下半身とを一直線で結ぶ即物主義の性器開陳会[かいちんかい]とは、根本から発想のちがう演出[だしもの]である。現在のものを衛生博覧会まがいの代物とするなら、あのころのストリップショーは一個の、歴とした演劇表現だった。とりわけショーと併演[へいえん]されていた芝居のおもしろさといったらもう.....と、どうしても現在のヌードショーを貶[おとし]めるような言い方になってしまうのは、当時、ストリップ劇場で文芸部員をしていたからで、ただそれだけのこと、別に現在のヌードさんに恨みはありません。
あの時分のストリップショーは、その手本をパリのフォリーベルジェールやニューヨークのジークフェルドのショーに仰ぎながら、観客をティーズ(思わせぶりにじらす、の意)するダンスとギャグ(笑わせる工夫、の意)とを正面に押し立てて、たしかに女性の体のまばゆいばかりの美しさをみごとに表現していたように思う.....と、いくら書いたところで、あのころのストリップショーの魅力を文章で分かっていただくのはむずかしい。ヴェニスの観光地図を見せて、「ヴェニスの大運河はすばらしい」と云っているようなもので、面倒な言い方をすれば隔靴掻痒[かつかそうよう]というやつである。そこでたいていはこのへんで筆先をほかへそらせてしまうのだが、最近、力強い味方が現れた。このほど上梓[じようし]された橋本与志夫氏の『ヌードさん』(筑摩書房)は、当時のストリッパーたちの歴史的な写真(私にはそれ以外に言いようがない)を満載して、読者の魂を往時のストリップ劇場の観客席や楽屋へ一気に引っさらって行ってくれる貴重な本である。どうかお求めいただきたい。そしたらうんと説明がしやすくなる。
中でも、見開き二ページにわたる浅草フランス座のフィナーレの写真には圧倒された.....このページだけでも立ち見をしていただきたいぐらいだが、踊り子さんとヌードさん合わせて二十三人、舞台狭しと(当時のストリップ劇場の舞台はほんとうに狭かった。中で浅草フランス座は業界第一の面積の広さを誇っていたが、それでも新宿紀伊國屋ホールの舞台ぐらいしかなかった)踊っている。玉川みどり、河原千鳥、月野初子、高原由紀、マヤ鮎川.....みんな懐かしい女[ひと]たちばかりだ。
そして、ここが大事なところなのだが、下手の黒幕の向こう側では、私たち文芸部進行係が、緞帳を下ろす頃合いを窺いながら、数台の電気コンロに数個の飯盒をのせて、セントルイスのカレー汁[じる]を煮ていたはずである。
ところで、私は食べ物というものにまったく関心がなく、白米の御飯があればそれで満足、あとは出されたものをただ食べるだけの、じつにつまらない人間である。どういう食べ物を「ごちそう」というのかも分からず、したがってこの解説にしても書きようがなくて、こうやってしきりに油を売っているのだが、前出の『ヌードさん』には、ストリップ劇場における「踊り子の階層」についての説明が省略してあるので、そのあたりへ筆を遠征させて、今後もできるだけ「ごちそう」には近づかないようにしたい。踊り子の階層についての説明がどうして大切かと云えば、それで給料はじめ楽屋の割り振りなど、待遇がまるでちがってくるからである。
まず、見習踊り子さん。浅草フランス座は小規模ながら、舞台ダンサーの養成所を持っていた。新聞広告を見てやってきた娘さん、支配人が銭湯からスカウトしてきたお嬢さん、夫に急死されて糧道[りようどう]を断たれた若い未亡人、そういった素人さんたちが、数週間、稽古場できびしく鍛え上げられて、舞台に上がってくる。彼女たちはオープニングや真ん中へんの小フィナーレやおしまいの大フィナーレで、観客からできるだけ離れて(ということは舞台の奥の方で)踊る。衣装の面積は広く、武骨な乳当[ちちあ]てをし、下半身は半ズボンを縮ませたようなもので覆っている。給料は五、六千円といったところ。ちなみに私たち文芸部進行係の月給は三千円で、もりそばを百枚も食べればなくなってしまった。
見習の上に、踊り子さん階級がある。ここへはダンスに上達し、舞台にも慣れた見習踊り子さんたちが昇進してくるが、そのほかにも日劇ダンシングチームやSKDから横滑りしてくる女[ひと]も多かった。そんなわけで踊り子さんたちはみんな上手に踊った。この中からショーと併演される芝居の方へ出演するひともいて、いわばこの階級が劇場の実質的な担い手だったといってよい。玉川みどりや河原千鳥は、渥美清長門勇谷幹一と四つに組んで客席を沸かせ、女優としての才能も見せていた。これら踊り子さんたちの月給は二万前後、衣裳面積はやや小さくなり、それと反比例して衣裳のデザインは派手になる。しかしストリッパーの証であるツンパ(布地をぎりぎりまで節約した一種のパンティ)は、はいていない。ツンパをはくのは、その上のセミヌードさん、そして股間にバタフラアを舞わせて踊るのは劇場の花形、ヌードさんだけである。
セミヌードさんとヌードさんとの、もっとも大きなちがいは、乳房を出すか出さないかにある。出せば月給は十万を超え、出さなければ八万どまりである。そこで支配人は「出せば出す出さねば出さぬギャラなれど出してくれなきゃ小屋はつぶれる」といった式の、わかるようでいてよくわからぬ文句を短冊に書いて事務室に貼り出していた。
観客の人気は主として、踊り子さんたちに集まる。セミヌードさんやヌードさんたちは、あっちこっちの小屋から声がかかり、どうしてもギャラのいい方へ動いてしまうから、馴染みの客をつくる暇がないのである。それに彼女たちのほとんどにヒモがついている。客は敏感だから、それほど気を入れて贔屓[ひいき]したりしない。
ところが踊り子さんたちは小屋に居つく。客の立場から云えば、「いつ行っても、あの女[こ]がいる。またあの女[を]観に行ってやろう」ということになる。こうして楽屋は、そういった贔屓客からの差し入れで賑やかになる。では客たちはどんなものを差し入れしたのだろうか。永井荷風高見順サトウハチローたちが根城にしていた国際通りの喫茶店、「セントルイス」特製のカレーライスが、断然、他を圧していた。毎日のようにカレー汁と白飯が届くのである。その汁を飯盒に集めて水を差し、薄くのばして量をふやすのが、私たち進行係の、なにより大事な仕事だった。こうして何倍にもふえたカレー汁は、午後遅く、楽屋中に振る舞われた。そして私たちの分け前は、踊り子さんたちの好意で飯盒の内側にたっぷりとこびりついて残されたカレー汁で、ここに白飯を放り込んで食べるのである。味音痴にもあれだけはおいしかった。たぶん踊り子さんたちの心意気のようなもので味付けされていたからおいしかったのだろう。そういうわけで、『ヌードさん』の見開き写真からはカレーの匂いが立ち上っている。