5/5 「水の流れ 永井荷風文学紀行 - 安岡章太郎」 講談社刊 歳々年々 から

5/5 「水の流れ 永井荷風文学紀行 - 安岡章太郎」 講談社刊 歳々年々 から

たしかに石川淳氏のいうごとく、荷風は戦前、《幸運なるランティエ》であったであろう。しかし、みずからの中に爛熟すべきものを持たぬランティエは、果して本当に幸運であったといえるだろうか?それを贅沢な悩みといえば、それまでである。暇にあかせて読んだり書いたり、戦争中に気儘に遊郭に出掛けて女郎屋のハシゴをしたり出来るのは、それだけでも羨むべき身分に違いない。しかし繰り返していえば、自身に守るべきものを持たぬ有資産者の心境は悲惨である。石川氏は《晩年の荷風はどうもオシャレでなさすぎる》といって、《歯が抜けたらば、さっさと歯医者に行くがいい、胃潰瘍ということならば、行くさきは駅前のカツドン屋ではなくて、まさに病院のベッ ドの上と きまっている》といっているのは、いかにも江戸っ子らしい癇性な気のまわし方といわざるを得ない。たしかに自分と同じ町内に、こういう見苦しい老人が、これ見よがし醜態をさらけ出してウロウロされたのでは、それだけで鬱とうしくてやり切れないかも知れない。私自身、荷風文化勲章をもらって、それを屑屋の爺さん然とした身なりのまま首にかけて写真にうつっているのを見たときは、何もそんなにまでして見せなくても、という気がした。しかし荷風にしてみれば、こういうイヤガラセが、じつは唯一のオシャレであったに違いない。
敗戦後の荷風は、いつまでたっても焼け出されの浮浪者のようであったが、これは単に《どうもオシャレでなさすぎり》というようなものではあるまい。むしろそれは、わざと汚れた白衣をきて街角に立っていた傷痍軍人に近いものであろう。 - しかし、戦後の流行作家というより文豪の荷風が、何でわざわざ傷痍軍人の真似をしなければならないのか?
考えられる理由の一つは、やはり荷風がたたかうべき相手を見失ったということであろう。では一体それまでの荷風は何を相手にたたかっていたのか?手近かな例は偏奇館であろう。荷風が、この家に何の未練も残していなかったことは、すでに何度も述べた。これはランティエ荷風としては、一見、異様に思われる。しかし、これをペンキ館と名づけたことからも、やはりこの家は荷風にとって仮住居だったと思われる。それより以前、荷風が偏奇館に移るまで父親とともに住んでいた大久保の家は、大名屋敷と呼ぶにふさわしい広大なものであったらしい。しかし「狐」その他に出てくるその家は、荷風が愛着を抱いていたとは考えられない。屋敷がいかに広大でも子供の荷風に は唯、淋しい、怖ろしい気がするばかりだ。
《父にはどうして、風に吠え、雨に泣き、夜を包む老樹の姿が恐くないのであろう。角張つた父の顔が時としては松の瘤よりも猶空恐しく思はれた事があつた。》
これに較べれば、偏奇館は独立した自分のものであるから、まだしも住み心地がよかったであろう。しかし、その家は軽薄なペンキ塗りの、まがいものの西洋建築にすぎない。どうして、こんなものに執着することが出来ようか。だから、その家が焼けてしまうと、跡地を棄て値で叩き売るわけだ。自分には住む家もなく、ひとの家の部屋を間借りして暮らしているというのに。しかも、土地を売って半年もたたないうちに、間借りの部屋を追い出され、結局は市川の在のボロ家を、売った土地の代金の五、六倍の値で買わなければならなくなる。そのぐらいなら、市兵衛町の土地を売らずに仮小屋でも建てて住んだほうがマシだったろうに。しかし荷風には、麻布の高台の土地に戻 って住む という気持はみじんもなかったに違いない。なぜか、という理由は、私にはハッキリとは示すことが出来ない。ただ、東京の山手に属するこの土地には荷風がどうしても馴染むことの出来ない何かがシミついて残っていたのであろう。
昭和二十三年十二月、新しく買入れた市川市菅野のその家に、荷風は決して満足していたわけではない。
《十二月二十日。晴また陰。午前高梨氏来話。午後買入家屋留守番の様子を見むとて行く。近隣農家の老婆兀座(ごつざ)して針仕事なしいたり。家は格子戸上口三畳、八畳六畳二間つづき、湯殿台処便所、小庭あり、雇婆と二人にて済むには頗狭し。長く居られるや否や。焼出されて身の置きどころなき人々に比すれば幸なれども過ぎし日のことを思へば暗愁限り知られず。燈刻停電。(後略)》
このようにして住みはじめた家に、荷風は昭和三十四年、息を引きとるまで住みつくこよになる。家としては、たしかに狭苦しく、偏奇館にくらべては《暗愁限り知られず》心細いものであったろうが、慣れてくると住み心地はそれほど悪くはなかったのかもしれない。いや、家は粗末でも、市川という土地には、荷風を安堵させるようなひなびたものが、まだその頃には、そこここに残っていたようである。
《市川の町を歩いている時、わたくしは折々四五十年前、電車も自動車も走つていなかつたころの東京の町を思出ことがある。
杉、柾木、槙などを植えつらねた生垣つづきの小道を、夏の朝早く鰯を売りあるく男の頓狂な声。さてはまた長雨の晴れた昼すぎにきく竿竹売や、蝙蝠傘つくろひ直しの声。それ等はいずれもわたくしが学生のころ東京の山の手の町で聞き馴れ、そしていつか年と共に忘れ果てた懐しい巷の声である。
夏から秋へかけての日盛に、千葉県道に面した商ひ舗(みせ)では砂ほこりを防ぐために、長い柄杓で溝の水を汲んで撒いていることがあるが、これも亦わたくしには、溝の多かつた下谷浅草の町や横町を、風の吹く日、人力車に乗つて通り過ぎたころのむかしを思ひ出させずには置かない。》(「葛飾土産」)

葛飾土産」は、荷風が市川に住んで二度目の新春を迎えようとする頃から書きはじめられ、次にその年の秋、さらに同じ年の冬と、三度に分けて発表された。いずれも極く短い文章であるが、郊外の人家の庭や農家の垣に咲いている梅の花からはじまって、都市化するにつれて荒廃して行く東京の街の移り変りを述べたあと、やがて市川の町などを流れる真間川のことに触れて、その川に沿って何処までも歩きつづけ、ついにそれが船橋の汚れた海に埋没するがごとくに流れこむことを見届けるところで終っている。荷風が町なかの川や水について語った文章は、「隅田川」をはじめ、「ふらんす物語」にもリヨンのローヌ河の描写があるし、東京都内の溝渠や細流についてなど、 まことに 枚挙にいとまがないほどであるが、この「葛飾土産」は晩年の荷風が川によせて自らの生涯を振り返り、なお、残された人生を歩んで行く姿が淡々としるされて、その深く静かな諦念が不言不語のうちに滲みとおるように描かれている。
私事をいえば、私も子供の頃から何度も市川に住んだことがあり、江戸川をはさんで小岩と市川の二つの町は名前をきいただけで何らかの感傷を誘わずにはいられない。そのせいか、この「葛飾土産」を小品文であるにもかかわらず、荷風掉尾(とおび)の名作であるように思うのである。一日、私は荷風の真似をして、市川の周辺から真間川ぞいの道を歩いてみた。
いまは市川も、街道を大型のトラックが絶え間なく白い砂塵を巻き上げながら通って行き、決して 落ち着いた町並みではないが、それでもおとずれてみれば、たしかに古い東京を想わせるところが何となく残っている。たとえば街道筋に、白いステテコをはいた坊主頭の親爺が二、三人、杖を片手にしゃがみこんで、傍の婆さんと何か語らいながらバスを待っていたりするが、こんな風景は東京の二十三区内では、もう見たくとも見られなくなった。真間川も江戸川から分れて町なかに流れこんでしばらくは、両岸をコンクリートで固められ、殺風景とも何とも索漠たる眺めであるが、八幡の藪知らずのあたりから両岸に桜の植った静かな通りになる。桜の寿命は比較的短いものだというから、荷風が川岸を歩いた二、三十年も前の頃にも、同じようにこの桜並木があったものかどうかは知らないが、いま葉をしげ らせて緑のトンネルのようなこの道を歩いていると、焼土の東京からこの町へやってきた荷風が、ほっと一と息つきたいような心境で、買物籠に枯枝や松毬など拾い集めながら歩いている姿がしのばれる。片側には生け垣がつらなり、また朽ちそうになった冠木門(かぶきもん)などあって、おそらくそれは古い東京の大店の主人の別荘ででもあったのだろうか。そんな家の門柱にも「貸し間あります」などと貼り札がしてあるのも、落ちぶれたランティエの世界が覗いて見えるようだ。桜並木は小一時間と歩かないうちに尽き、やがて電車のガードをくぐりぬけると、川は単なる油の浮いた汚い水たまりのようになって、ここから先き私は歩きつづける興味を失った。しかし、落魄した荷風の心境をうつし出すには 、このように荒涼とした光景はかえってふさわしいのかも知れない。
《遥に水の行衛を眺めると、来路と同じく水田がひろがつているが、目を遮るものは空のはづれを行く雲より外には何物もない。卑湿の地も程なく尽きて泥海になるらしいことが、幹を斜にした樹木の姿や、吹きつける風の肌ざはりで推察せられる。たどりたどつて尋ねて来た真間川の果ももう遠くはあるまい。》
こう描かれた風景がいったいどのあたりを写したものか、いまは見当もつきにくい。私の眼の前にあるのは一面アスファルト舗装にした広い地面であり、その向う側に赤、黄など毒々しいペンキの色を塗り立てたヘルス・センターとかいう、不可思議醜怪なるものが建っているに過ぎなかった。