2/2「総料理長 田中健一郎 - 村松友視」文春文庫 帝国ホテルの不思議 から

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2/2「総料理長 田中健一郎 - 村松友視」文春文庫 帝国ホテルの不思議 から

田中さんは、電車の中でメニューをまとめることは意外に多いが、メニューが浮かぶ時間がもうひとつあって、それは唯一の趣味であるヘラブナ釣りをしているときだという。「だから、釣りのときはいつもメモ用紙を持って、思いつくとメモしてる。まわりの釣人は、あいつ何やってるんだろうって怪しんでるでしょうね」、と田中さんは首をすくめた。
釣りはヘラブナに始まってヘラブナで終る....そんな言葉を、かつて聞いたことがあったが、ヘラブナ釣りとメニューのかかわりを口走ったついでに始まった田中さんのヘラブナ釣り談義は興味深かった。
ヘラブナは篦鮒と書くから、篦[へら]のような形をしているのだろう。ゲンゴロウブナの人工飼育品種で溜池養殖、釣堀用、放流種苗用などにする魚だが、釣人の田中さんはゲンゴロウを競技用に改良したゲームフィッシュだと解説してくれた。魚体は鯛と同じで背が高い。鯛も三段引きといって、かかってるときに三回、くっくっくっと上げるまで三回突っ込むが、ヘラブナも同じだという。田中さんにとってはそのかかり味がこたえられないそうだ。
ヘラブナってのは、釣っても食べられない。しかも一か所にずっと坐ってる釣りでね、体にもよくない。で、当たりが面白いんです。ぐんぐん引くとか大きいのを釣ったとか喜ぶのはまだ素人で、自分の餌をブレンドして、自分の出したい当たりを出せて針にかかれば、もうそれで満足。ヘラブナはね、グルメなんです。餌がまずいと尾っぽではねちゃう。ヘラブナ釣りの餌は基本的にブレンドですから、粘るも粘らないもの、バラけるものバラけないもの、重さのあるもの軽いもの....それを自分なりにブレンドしていくわけです。ぼくはクジャクの羽使うんですけども、ぼくが餌つけると三つの目盛りが下がる。で、誰かが餌をつけると一つしか下がらない。それでもうヘラは食いませんから、餌のつけ方、おさえ方でまるでちがう。だから、隣りで釣ってる人に餌くれよって言われて渡しても、その人はぜんぜん釣れないんです」
私は田中さんのヘラブナ釣りについての話を、料理に置きかえながら聞いた。見えない相手を想像しての餌の吟味とブレンドの工夫、餌のつけ方、おさえ方、当たりの面白さ、そして自分の出したい当たりを出すことができたときの満足感、など、敏感で神経質なグルメといったヘラブナへの対し方は、たしかに料理人らしいセンスだ。

田中 もうひとつヘラブナ釣りで好きなのは、釣りがきれいなんですよ。
- きれい....
田中 要は、釣れば釣れるだけ釣っておみやげにとか、あのきたなさがないんですよ。ヘラブナを釣る人は、魚と環境をすごく大事にしますから、魚体を傷めないように針を返しもしないし、かかったらなるべく傷つけないようにあげて、針を手元で返して、そのまま放しちゃいます。
- そういう意味で、きれいなんですね。
田中 ぼくの女房の実家の近くに、神が流れる湖と書く神流湖[かんなこ]というのがあって、女房の実家へ行ったときはそこで釣るんです。そこがまた釣れるんですよ。ぜんぶヘラブナですから放して帰るんですが、ある日向こうのおやじさんと酒飲んでるとき、おまえは本当に釣りに行ってるのか行っていないんだか分からないと言われたんですよ。
- ああ、証拠の獲物を持ち帰らないからですね。
田中 そう言われて悔しいから、じゃあ、あした持って来ますと。で翌日、生きたままのヘラブナを三尾くらい濡らした新聞紙にくるんで持ち帰って、金だらいに入れておいたんです。実家の下に神流湖に通じる神流川が流れているから、あとでそこへ放そうと思いながら、酒飲んで寝ちゃった。で、夕飯のとき起こされると食卓の上に何か魚のフライがでてきた。食べたらおいしいんですよ、白身のかるい味で。
- それはまさか....。
田中 そのまさかのヘラブナで、釣って帰った魚をしめたものだと言われた。え! これヘラブナですかって(笑)。
- おいしいっていうのはまずいんじゃないですか、ヘラブナの釣人としては。
田中 でも、おいしかった。それに、食べたんじゃなく、食べさせられちゃったんだし。食べちゃった以上は、味についても正直に言わないとね。

それから田中さんは、神流湖のエメラルドグリーンの美しさについて、陶然と語りつづけた。その純真さと茶目っ気にみちた表情に、やがて帝国ホテルねスタンダード料理をたばねる総料理長の色があらわれたのを見て、私はようやくインタビューを切り上げた。
村上信夫、下積み修業、フランス留学、調理部長と料理長の兼任、“ロックが外れてバアーッと出る”ようなメニューのまとめ方、帝国ホテルの料理が伝統を基盤にした総合競技であるという強い認識、そしてヘラブナ釣りへのこだわりと“つい食べちゃった事件”などのすべてが、田中さんの魅力をつくり上げる財産になって生きている。無邪気、誠実、貫禄、いたずら者、粋、男の単純さと複雑さ、豪快と繊細などがくるくると変化しながら、最終的にあたたかさが伝わってくる、田中総料理長はそんな人である。