1/2「世捨人の文学 -車谷長吉」新潮文庫 百年目(新潮文庫編集部編) から

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1/2「世捨人の文学 -車谷長吉新潮文庫 百年目(新潮文庫編集部編) から

日本の昔咄に「花咲か爺さん」というのがある。正直で、温厚で、親切で、怒らず、怨まず、悲しまず、何をやってもうまく行くお爺さんである。ところが、その隣りに、強欲で、邪[よこし]まで、因業で、すぐに怒り、怨み、悲しむ、意地悪爺さんが住んでいて、こちらの方は何をやってもしくじりばかりし、とどの詰まりは撒いた灰が殿様の目に入り、牢屋に繋がれてしまう。播州飾磨の双葉幼稚園に通っていた時分、私達は保母の島崎先生にこのお咄を読んでもらった。すると、読み終るや、島崎先生は「この隣りの意地悪爺さんは、まるでよしこちゃんみたいやわね。」と言うた。園児たちはドッと笑った。私の本名は嘉彦で、みんなには「よしこちゃん」と呼ばれていたのである。それから私には「隣りのお爺さん。」という仇名が付いた。
無論、その当時「隣りのお爺さん。」と言われると不快な思いがした。併しその後、慶應義塾に入り、菱見公利(女優・ひし美ゆり子の兄)と親しくなると、菱見は「お前の厭世観は、どうも爺むさい。たとえば俺みたいにフルートの稽古をするとか、ダンス・パーティを愉しむとか、もっと青春を謳歌することを考えたらどうなんだ。」とよく言うのだった。それで私としては図らずも播州飾磨での幼稚園時代のことを思い出し、その頃のことを思い出してみると、「花咲か爺さん」よりは「隣りの意地悪爺さん」の方が人間の現実として、生々しい真実を表しているように思われ、また私自身の人品骨柄を考えて見ても、「花咲か爺さん」よりは「隣りのお爺さん」により近い存在であるように思いなされ、島崎先生の炯眼[けいがん]は鋭いものがあったな、と感心した。
菱見は「お前の厭世観は。」と言うたが、けれども勿論、その時分の私には世を捨てて生きて行きたいという考えはなく、ま、言うなれば青年の憂鬱に囚われていただけのことである。私がはじめて「世捨て」という生き方を明瞭に意識したのは、学校を出て三年目、二十五歳の秋の末に三島由紀夫東京市ヶ谷の旧陸軍士官学校で自刃し、烈[はげ]しい衝撃を受け、続いて尾山篤二郎校註「西行法師全歌集」(創元文庫)を読んだことによる。人生の一回性をどう生きるか。すでに人生の半ばが来てしまった者として、これは真剣に考えなければならないことであった。
西行には、たとえばこんな歌がある。(世をのがれるをりゆかりなりける人の許へ云ひおくりける)とて、「世の中を反[そむ]き果てぬといひおかん思ひしるべき人はなくとも」、「世中を捨てて捨てえぬ心地して都離れぬ我身なりけり」、(述懐の心を)とて、「世をすつる人はまことにすつるかはすてぬ人こそすつるなりけれ」、「心から心に物を思はせて身を苦しむる我身なりけり」、「あはれあはれこの世はよしやさもあらばあれ来む世もかくや苦しかるべき」、(十月十二日、平泉にまかりつきたりけるに、雪ふり嵐はげしく事の外にあれたり。いつしか衣河[ころもがわ]みまほしくて、まかりむかひて見けり。河の岸につきて衣河の城しまはしたる事柄、やうかはりて物を見る心ちしけり。汀[みぎは]こほりて取分けさびしければ)とて、「とりわきて心もしみてさえぞ渡る衣河みにきたる今日しも」。これらの歌に現れた西行の心の苦痛が、私の心に取り憑いた。それがその後の私の物の考え方に決定的に作動した。
私は三十歳の正月、東京で無一物になり、併しそれを悔やむ心はかけらもなく、その後九年間を風呂敷荷物一つ、下駄履きで関西各地のタコ部屋を転々とした。無一物になって二、三年は、自分が知識人[インテリ]であることを嘲る心が強く働き、本を読むことはしなかったが、併しそういうタコ部屋暮しを一種の遁世、世捨ての生活だと思うようになってからは、永井荷風の文庫本を読むようになった。その時分に求めた荷風の文庫本が、手許にまだそっくり残っている。算[かぞ]えて見ると、七十三冊ある。その中で私がもっとも好み、もっともくり返し読んで来たのは「花火・雨瀟瀟[せうせう]」(岩波文庫)である。この二篇は、ともに荷風の隠士の精神がよく表現された作品であるが、取り分け「雨瀟瀟」は惻々[そくそく]と私の心に沁みる。大正十年正月荷風四十二歳の時の作品である。
《その頃のことゝ云つたとて、いつも単調なわが身の上、別に変つた話のあるわけではない。唯その頃までわたしは数年の間さしては心にも留めずに成りゆきの儘送つて来た孤独の境涯が、つまる処わたしの一生の結末であらう。此れから先わたしの身にはもうさして面白いこともない代りまたさして悲しい事も起るまい。秋の日のどんよりと曇って風もなく雨にもならず暮れて行くやうにわたしの一生は終つて行くのであらうといふやうな事をいはれもなく感じたまでの事である。わたしはもう此の先二度と妻を持ち妾を蓄へ奴婢[ぬひ]を使ひ家畜を飼ひ庭には花窓には小鳥縁先には金魚を飼ひなぞした装飾に富んだ生活を繰返す事は出来ないであらう。時代は変つた。禁酒禁煙の運動に良家の児女までが狂奔するやうな時代に在つて毎朝煙草盆の灰吹の清きを欲し煎茶の渋味と酒の燗の程よきを思ふが如きは愚の至りであろう。衣は禅僧の如く自ら縫ひ酒は隠士を学んで自ら落葉を焚いて暖むるには如[し]かじと云ふやうな事を、不図[ふと]ある事件から感じたまでのことである。
十年前新妻の愚鈍に呆れてこれを去り七年前には妾の悋気[りんき]深きに辟易して手を切つてからこの方わたしは今に独[ひとり]で暮してゐる。興動けば直に車を狭斜の地に駆るけれど家には唯蘭と鶯と書巻とを置くばかり。いつか身は不治の病に腸と胃とを冒さるゝや寒夜に独り火を吹き起して薬飲む湯をわかす時なぞ親切に世話してくれる女もあればと思ふ事もあつたが、然しまだまだ其頃にはわたしは孤独の侘しさをば今日の如くいかにするとも忍び難いものとはしてゐなかつた。孤独を嘆ずる寂寥悲哀の思は却て尽きせぬ詩興の泉となつてゐたからである。わたしは好んで寂寥を追ひ悲愁を求めんとする傾さへあつた。
(中略)
詩興湧き起れば孤独の生涯も更に寂寥ではない。(中略)然し詩興はもとより神秘不可思議のもの。招いて来らず叫んで応へるものではない。されば孤独のわびしさを忘れようとして只管[ひたすら]詩興の救を求めても詩興更に湧き来らぬ時憂傷の情こゝに始めて惨憺の極に到るのである。詩人平素独り味ひ誇る処のかの追憶夢想の情とても詩興なければ徒[いたづら]に女々しい愚痴となり悔恨の種となるに過ぎまい。》
荷風の「世捨て」は、言わば都会の陋巷にあってみずから求めたものである。併しそれは随筆「父の恩」にも書かれたように、荷風は父から莫大な財産(一説によれば、明治時代末の金で三千萬円、今日の金に換算すると三十億円とも言われる)を受け継ぎ、それをちゃっかり三菱銀行に預金しておいて、その利子での妾囲いであり、偏奇館での独居であった。