「持たずに持つこと - 寺山修司」角川文庫 家出のすすめ から

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「持たずに持つこと - 寺山修司」角川文庫 家出のすすめ から

わたしはいったい何を持っているだろうか! と考えることがあります。たとえばわたしはチャーリー・ミンガスやマル・ワルドロンのモダン・ジャズのレコード。あまりスポーティではない何枚かのシャツやセーター。都心の安アパートや古いボクシング雑誌、まわらなくなった珈琲挽き機械を持っています。なかなか標準語化しない青森訛りも持っているし、病歴も、アダムスやスタインベルグの漫画本も持っています。
だが「持っている」といっても、いつも手に持っているわけではない。
おもうときに、おもうように自由にできるから、「わたしのもの」だというふうに考えている、という程度のことなのです。
だが、おなじような意味でなら、わたしは広い空全体を持っているし、東京の町も持っているということもできるのです。つまり「おもうときに使用しても、文句をいわれない」という意味でなら、わたしの所有の範囲はぐんと広まるのであって、......とくに「わたしのもの」と主張しなくとも、わたしはさきにあげた以外の数え切れない多くのものを「持って」おり......、言葉をかえていえば、かなりの財産家である、ということもでかるのです。
イヴ・クラインという、変死したフランスの画家の日記的な十六ミリ・フィルムを、先日、機会があって見せてもらいましたが、彼など何如にも前衛らしく、パリ全部を所有しているのでした。たとえば彼は、フィルムのなかで、わたしたちに一篇の美術作品を見せるといいます。
そして画廊なかで、青い一枚のカーテンをめくって見せるのですが、カーテンのかげにあるのは、彼の描いたパリの町の絵ではなくて、ほんもののパリの町そのものなのです。
クラインは、カーテンをくぐって、その町にでてゆき、パリのさまざまの建物や石段の上に自分の影をうつします。そして、その動く自分の影と、パリの町そのものでもって「パリ」という彼の一篇の作品だ......というわけなのです。(そんな作品を見ながら、わたしはクラインのパリをおもい、同時にわたし自身のパリをおもうわけですが、所有というのは本来、そういうものでしかないのではないでしょうか)
二十三歳になるフランスはブレチニー・シュル・オルジュの娘は、「持つこと」についてこんな意見を「アール」紙にのせています。

「同じ若い世代の人たちのささやかな野心のみすぼらしあ!まじめにはたらき、サハラを灌漑する。LPセットときれいな妻といい子どもをもつこと。一週に一度は教養をえようとつとめる。確実な価値(正直、洗濯機、サン・テクジュベリなど)をえらぶこと。ああ、なんとなくむなくそわるい計画!こんなものは飼いならされた家畜の理想だ。洗濯機を中心に夢想はできやしない。
もちたい、もちたい!彼らはすべてのものをもちたいとのぞむ。いったい彼らにとっては何かのために生き、また死なねばならぬというものは存在しないのだろうか!」(生島遼一訳)

この不満は、一九五七年にフランスの青年(おもに大学生たち)たちからとったアンケートの結果にむかって叩きつけたものですが、わたしもまったく賛成するものです。
(フランス学生たちの、このアンケートの結果は尊敬する画家がゴッホピカソであり、映画監督はルネ・クレールブレッソンであり、好む徳目は正直さ、誠意。そしてベートーベンとバッハを愛するという、きわめて確実な価値の信奉者であることをあきらかにしたものでした)

この二十三歳の娘はロートレアモンやアンリ・ピシェットの詩人を問題にせよ、といっているのですが、そのことは、いってみれば小市民的所有の感覚へ、斧の一撃をくらわせよ!ということにつながってくるわけです。
つまり、わたしがさきにあげたように、自分の「持っているもの」などというのは、たんに自分が管理している、というだけのことであって.......しかも、そのことだけを比較するならば、誰も博物館の番人ほどにたくさんのものを「もつ」ことはできないでしょう。
けちくさい所有の単位として「家」を考えるくらいなら「家」などは捨てた方がよい。死体置場の番人になるくらいなら、町の群衆全体を「所有」する方が、はるかに人生に参加する意味がある。
問題は、むしろ、「家」の外にどれだけ多くのものを「持つ」ことができるかによってその人の詩人としての天性がきまるのであり、新しい価値を生みだせるのだ......と知ることです。