「模造土偶・三十七年間ニセモノと信じてもらえなかったホントの話 - 大高興」日本の名随筆別巻9から

 

「模造土偶・三十七年間ニセモノと信じてもらえなかったホントの話 - 大高興」日本の名随筆別巻9から

「この土偶を作ったのは私だ」と名乗り出ても、関係者からは、それだけではニセモノという理由にはならないと相手にされず、結局三十七年もの長い間、ホンモノとして考古館に陳列され、更にはパンフレットや町発行の町勢要覧にまで写真入りで掲載されたことがある。
ことの起こりは昭和十七年の夏、太平洋戦争勃発の翌年のことである。当時わたしは県立木造中学校四年生の十六歳であった。実父は西津軽郡柴田村福原小学校の校長をしていたが、この学校の校庭北側を流れる用水堰を部落民が総出で深く掘り下げることになった。理由は防火用兼田畑への水量確保のためである。このとき、堰の底から、青色味がかった良質の粘土がどっさり掘り出され、堰の縁に堆く積まれて放置された。子供ごころに勿体ないと思ったわたしは、その粘土を使って庶光器土偶の頭部を作ることにした。この様式の土偶は、今を去る二千二百年~三千年前の縄文晩期に栄えた亀ヶ岡式土器文化に見られる目を誇張した土偶で、その代表的な土偶は国の重要文化財に指定されている。
わたしは、勉強机(現在も保存している)の上にマスコットとして飾りたくて、自分の心の中にある土偶を素直な気持ちで作ったまでで、ニセモノをこしらえようなどとは考えてもいなかったのである。この時、土偶焼成するのに、近くのゴミ捨場から拾ってきた角型の七輪を校庭の隅に運んだが、半分壊れてヒビが入り、火皿もなかったことを覚えている。校庭の入口にあったネムの木の枝を拾い集めて、藁と一緒に七輪の中で燃やして土偶を焼いたが、焼いている最中に土偶が転び、頭部の一部が破損したので、あわてて接着した。こうして一個の土偶が誕生し、わたしのマスコットとなったのである。
二年後の昭和十九年、わたしが越水小学校に出かけて不在中に、木造町舘岡の父の知人である通称Tさんが遊びに来て、この土偶をあまりに欲しがったので、父はわたしに無断でTさんなくれた。しかしその時、「これは息子の興が作ったニセモノだよ」とTさんに念を押したことを、当時、父から聞いている。Tさんは小踊りして喜んだらしく、すぐにその足で木造町舘岡に住む亀ヶ岡遺物蒐集家の越後谷さん(故人)に持ち込み、酒、みそ、しょう油、菓子など大きな手かご一杯と交換したとか(当時、これらの品は配給制度下にあったので容易に入手できなかった)。
戦後の昭和三十四年三月、亀ヶ岡考古館が遺跡の近くに開館して間もなく、問題の土偶頭部は、亀ヶ岡遺跡からの出土品として、他の立派な本物の遺物と一緒に考古館のメーンになる陳列棚に飾られた。それを知った父は、昭和四十二年、六十九歳で他界するまで数回にわたって考古館に対し、「セガレの興が作ったニセモノだから陳列をとり止めるように」と勧告したと聞いている。しかし関係者らは、それがニセモノだとは容易に信じてくれなかった。
昭和四十二年夏、わたしは、かの有名な亀ヶ岡土器が縄文時代にどの方面から採取した粘土で作られたかを知るために、遺跡周辺の粘土の化学分析を行った。その際、亀ヶ岡に出向き、考古館に立ち寄って陳列室の中を何気なく見ると、部屋の正面の最もよく目立つ場所に、わたしのニセの土偶が丁寧に飾られているではないか。その時のわたしの驚きと恥ずかしさは今でも忘れることが出来ない。わたしは即刻、役場の係員に、今までの顛末を話すと共に、ただちに撤去するよう申し入れたが、「カギは木造町役場で保管し、支所には無いのでケースを開けることが出来ない。明日必ず上司に報告して善処します」と。しかし、その時でさえも、ニセモノとして信用してくれたかどうか、今になってみると疑わしい。

昭和五十六年八月十三日の午後、わたしは墓参のため故郷の木造町菰槌の生家に立ち寄った。このとき、家人から縄文館のパンフレットを見せつけられてびっくり仰天。パンフレットは町の教育委員会で作ったもので、数年前に新しく造られた立派な縄文館の重要収蔵物の一点として、写真入りで掲載されていたのである。家人はわたしにパンフレットをつき付けて、「お前、これをどうする気だ!」と非難し、また、仏壇の前に坐ると亡父の顔がわたしの目前に現れて「早く何とかセイ」と、にらんでいるような錯覚におそわれた。これまでに数多くの県内外見学者がこのニセ土偶を本物と勘違いして眺め、パンフレットを持ち帰ったに違いない。また小中学生の良い子たちも勉強や宿題などに利用したかも知れない、などと考えると、わたしは気が滅入るばかりか罪の意識さえ覚えた。
ことここに至り、木造町長はじめ縄文館長にも所蔵者にも迷惑がかからないで、スムーズに撤去する良い方法がないものかと考えたすえ、わたしは考古学者に進言してもらうのが最良と判断した。この年の十月十一日、考古学の権威である慶応大学江坂輝彌教授が来青したので、先生に今までの経過をお話し、協力をお願いしたところ、先生は快諾して下さった。手筈として、数日中に問題のパンフレットを取り寄せ、先生から直接木造町へ申し入れることにした。
十月十六日、朝から晴天。江坂教授の手をわずらわす前に、今一度、町長にお目にかかって頼んでみたいと思い、午後休診して車で木造町役場に出かけた。そして町長にお会いし、今までの一部始終を精しく話して協力をお願いした。成田町長は立派な方で、よく理解してくれ、早速電話で教育長(不在だった)や関係者に連絡をとってくれた。町長のお話では、先きの考古館開館陳列の頃は自分が落選して町長職をしりぞいていた。現在、縄文館には見学者が一年間に県外から五千人、県内から四千人以上あり、一年間にざっと一万人くらい来ているとのこと。ニセ土偶は「縄文館パンフレット」のほか「亀ヶ岡考古館パンフレット」「きづくり」にも掲載されていることがわかり、あらためて驚いた次第。
役場を辞して亀ヶ岡の縄文館に車を走らせ、N係長に話し、記念として写真を数枚撮影した。わたしの話を聞いたN係長も最初は半信半疑だった。その理由を彼に尋ねると、所有者が著名な蒐集家であったこと。数年前、考古館から縄文館に移した際に、弘前大学考古学研究室から先生方に来ていただいて、土器や土偶を掃除してもらったが、ニセモノだとは言われなかったこと、先日も地元の中学校長らが見学に来たが、どなたからも指摘されなかったことなどをあげた。
こうしてわたしの少年時代の作品が三十七年間も本物とされて世間に通ってきたのである。口の悪いわたしの友人は「本物と間違えられたニセモノ」と題して県展にでも出品すれば、奨励賞ぐらいは貰えるのではないか、と笑っていた。