(巻三十七)葉桜や音痴の抜くる路地の奥(西谷良樹)

(巻三十七)葉桜や音痴の抜くる路地の奥(西谷良樹)

6月9日金曜日

弱雨。朝家事は拭き掃除と洗濯・扇風機をあてて部屋干し。

昼飯に竹輪の卵とじが付いた。油揚げの卵とじはきつね丼、蒲鉾の卵とじは木の葉丼とか云うそうだか竹輪のには何か名前があるのだろうか?

昼飯喰って、一息入れて、3時ころまでコチコチいたした。昼寝覚めの細君から郵便受けのチェックを頼まれて外に出たが、歩けそうな天気なので近所の猫詣りに出かけてトイちゃんとトモちゃんにおやつをあげた。

夜、風呂場で夏帽子を洗濯し、風呂場のタオル掛けに干しておいた。

願い事-涅槃寂滅、ポックリ御陀仏。

お稲荷さんに詣でてお願いはしなかったが、明日、今日の分まで「ポックリ御陀仏」をお願いしよう。

石川淳の井上井月論を読み始めた。で、氏の、

「敗荷落日 - 石川淳岩波文庫 荷風追想 から

を読み返してみた。

聞きとめてよりの水音敗荷(村上靹彦)

「敗荷落日 - 石川淳岩波文庫 荷風追想 から

一箇の老人が死んだ。通念上の詩人らしくもなく、小説家らしくもなく、一般に芸術的らしいと錯覚されるようなすべての雰囲気を絶ちきったところに、老人はただひとり、身辺に書きちらしの反故[ほご]もとどめす、そういっても貯金通帳をこの世の一大事とにぎりしめて、深夜の古畳の上に血を吐いて死んでいたという。このことはとくに奇とするにたりない。小金をためこんだ陋巷[ろうこう]の乞食坊主の野たれじにならば、江戸の随筆なんぞにもその例を見るだろう。しかし、これがただの乞食坊主ではなくて、かくれもない詩文の家として、名あり財あり、はなはだ芸術的らしい錯覚の雲につつまれて来たところの、明治このかたの荷風散人の最期とすれば、その文学上の意味はどういうことになるか。

おもえば、「葛飾土産」までの荷風散人であった。戦後はただこの一篇、さすがに風雅なお亡びず、高興もっとよろこぶべし。しかし、それ以後は......何といおう、どうもいけない。荷風の生活の実状については、わたしはうわさばなしのほかにはなにも知らないが、その書くものはときに目にふれる。いや、そのまれに書くところの文章はわたしの目をそむけさせた。小説と称する愚劣な断片、座談速記なんぞにあらわれる無意味な饒舌、すべて読むに堪えぬもの、聞くに値しないものであった。わずかに日記の文があって、いささか見るべしとしても、年ふれば所詮これまた強弩の末のみ。書くものがダメ。文章の家にとって、うごきのとれぬキメ手である。どうしてこうなのか。荷風さんほどのひとが、いかに老いたとはいえ、まだ八十歳にも手のとどかぬうちに、どうすればこうまで力おとろえたのか。わたしは年少のむかし好んで荷風文学を読んだおぼえがあるので、その晩年の衰退をののしるにしのびない。すくなくとも、詩人の死の直後にそのキズをとがめることはわたしの趣味ではない。それにも係らず、わたしの口ぶりはおのずから苛烈のほうにかたむく。というのは、晩年の荷風において、わたしの目を打つものは、肉体の衰弱ではなくて、精神の脱落だからである。老荷風は曠野の哲人のように脈絡の無いことばを発したのではなかった。言行に脈絡があることはある。ただ、そのことがじつに小市民の痴愚であった。

葛飾土産」以後、晩年の荷風には随筆のすさびは見あたらぬようである。もともと、随筆こそ荷風文学の骨法ではなかったか。ただし、エセエという散文様式を精神の乗物としたところの西欧の発明とは、もとからおもむきがちがう。荷風の随筆は紅毛舶載の流儀に依るものと考えるよりも、やっぱり前代の江戸随筆の筋を引くこと多きに居るものと見たほうが妥当だろう。一般に、随筆の家には欠くべからざる基本的条件が二つある。一は本を読むという習性ががあること、また一は食うにこまらぬという保証をもっていることである。本のはなしを書かなくても、根柢に書巻をひそめないような随筆はあさはかなものと踏みたおしてよい。また貧苦に迫ったやつが書く随筆はどうも料簡がオシャレでない。その例。奇妙なことに、荷風のしきりに珍重する為永春水が書いた随筆のごときは、あきらかにその無学と貧窮とのゆえをもって、目もあてられぬ泥くさいものになっている。すなわち、和朝ぶりの随筆といえども、右の二つの基本的条件によって支えられているかぎりでは、ともかくそこに精神上の位置のエネルギーを保つことをえたのだろう。むかしは、荷風は集書の癖あり、またちとの家産を恃[たの]んでもいたようだから、まさに随筆家たるに適していたとおもわれる。

しかるに、わたしが遠くから観測するところ、戦後の荷風はどうやら書を読むことを廃している。もとの偏奇館に蔵した書目はなになにであったか知らないが、その蔵書を焼かれたのち、荷風がふたたび本をあつめようとした形迹[けいせき]は見えない。戦後ほどなく諸家の蔵書放出ということがあって、あちこちから古刊本古写本のかくれていたものがながれ出して来て、市場に一時のにぎわいを呈したおりにも、荷風がなにか買ったといううわさはついぞ聞かなかった。それよりすこしののち、フランスの本のことでいえば、パリの新刊書が堰を切ってどっと押し寄せて来たころ、荷風はたしか座談の中で「ちかごろは向うの本が来ないので読まない」という意味のことをしゃべっていた。来ないどころか、来すぎていたくらいである。サルトルカミュ、エリュアール、ミシォン、メルロー・ポンティなんぞの著作は、すくなくともそれが輸入された当時には、荷風はおそらく読んでいない。まちがう危険をかえりみずにいえば、それがどれほどの本であったか。どこにでもざらにころがっているような古本ではなかったのか。念のためにことわっておくが、わたしはひとが本を読まないことをいくないなんぞといっているのではない。反対に、荷風が書を廃したけはいを遠望したとき、わたしはひいき目の買いかぶりに、これは一段と役者があがったと錯覚しかけた。古書にも新刊にも、本がどうした。そんなものが何だ。くそを食らえ。こういう見識には、わたしも賛成しないことはない。ただし、そのくそを食らえというところから、別の方向に運動をおこして行くのでなければ、せっかくのタンカのきりばえがしないだろう。わたしはひそかに小説家荷風において晩年またあらたなる運動のはじまるべきことを待った。どうも、わたしは待ちぼうけを食わされたようである。小説といおうにも、随筆といおうにも、荷風晩年の愚にもつかぬ断章には、ついに何の著眼[ちやくがん]も光らない。事実として、老来ようやく書に倦んだということは、精神がことばから解放されたということではなくて、単に随筆家荷風の怠惰と見るほかないだろう。

本のことはともかく、随筆家のもう一つの条件、食うにこまらぬという保証のほうは、荷風は終生これをうしなわず、またうしなうまいとすることに勤勉のようであった。ところでこの保証とはなにか。生活上避けがたい出費にいつでも応ずることができるだけの元金。それを保有するということになるだろう。すなわち、rentier(金利生活者)の生活である。財産の利子で食う。戦前の荷風は幸運なランティエであった。このひとにとって、むかしのパリというものはたしかに気に入った世界であったにちがいない。今は知らず、昔のパリの市民は、勤労者の小市民ならばなおさら、その生活上の夢をおしなべてランティエたることに懸けていたように見える。荷風アンリ・ド・レニエの書いた物語を好んでいるが、このレニエの著作こそ、すべてランティエの、もしくはそうなることを念願し憧憬する小市民の、ささやかな哀愁趣味をゆすぶってくれるような小ぎれいな読物であった。ランティエの人生に処する態度は、その基本において、元金には手をつけないという監戒からはじまる。一定の利子の効力に依ってまかなわれるべき生活。元金がへこまないかぎり、ランティエの身柄は生活のワクの中で一応安全であり、行動はまたそこに一応は自由であり、ワクの外にむかってする発言はときに気のきいた批評すらありえた。ランティエの、いや、荷風の倫理上の自慢はただ一つ。金銭上他人に迷惑はかけない。ということは、自分が他人から金銭上の迷惑をこうむることをいかに恐怖していたかという事情を告げるにひとしいものだろう。もしかすると、他人の所有をおびやかさないような迷惑ならば、もしそれがあったとしても、決して恐怖に値するほどの迷惑ではないという見識なのかも知れない。戦中の荷風は堅く自分の生活のワクを守ることに依って、すなわちランティエの本分をつらぬくことにおいて、よく荷風なりに抵抗の姿勢をとりつづけることができた。ランティエ荷風の生活上の抵抗は、他の何の役にも立たなかったにせよ、少くとも荷風文学をして災禍の時間に堪えさせ、これを戦後に発現させるためには十分な効果を示している。精神もまたどこかの金庫の中につつがなく、財産とともに保管されて、そこに他人の手がふれることを拒否していたふぜいである。わるくない成行であった。しかし、時は移って、戦後の世の中になると......

戦前の大金は戦後の小銭、むかしの逸民は今の窮民である。ぶらぶらあそんでくらす横町の隠居というものを、今日に考えることができるだろうか。ランティエということばは観念上にもすでにほろびて、そのことばに該当するような人間はもはや実在しえない。事態は明瞭である。一生がかりの退職金でも老後は食えないという市井の事実は、個人生活における元金の魔の失権を告げている。しかし、今日の小市民の中にも、なおむかしとおなじく、ランティエの夢は懐古的にのこっているかも知れない。ただむかしとちがって、今日の小市民はそれがついに実現すべからざる夢だということを、そして食うにこまらない明日の、いや、昨日の夢に足をさらわれては今日たちどころに食うにこまるということを、痛切におもい知っているだろう。小市民というものは存外ぬけめのないやつらなのだから、よっぽど足腰の立たない律儀者でなかぎり、あらゆる念願にも係らず、自分の人生観を自分で信ずるなんぞというドジは踏まない。自分の人生観。いや、人生観は出来合の見本がずらりとならんでいる中から、当人の都合に依って、任意に取捨したほうが便利にきまっている。その見本の山の底に、とうに無効になったランティエの夢がうっかりまぎれこんでいたとしても、たれも手を出すはずがない。これは戦争という歴史の断絶が市井に吹きこんだ生活上の智慧だろう。このとき、市井の片隅にあって、荷風がいつも手からはなさなかったというボストンバッグとは、いったいなにか。

ひとの語るところに依れば、荷風はこの有名なボストンバッグに秘めたものをみずから「守本尊」といっていたそうである。そのごとくならば、これは死んでも手をつけてはならぬものにちがいない。もしボストンバッグの中に詰めこんだものがすでにほろびた小市民の人生観であったとすれば、戦後の荷風はまさに窮民ということになるだろう。「守本尊」は枕もとに置いたまま、当人は古畳の上にもだえながら死ぬ。陋巷の窮死。預金通帳の数字の魔に今日どれほどの実力があろうと無かろうと、窮死であることには変りがない。当人の宿願が叶ったというか。じつは、このような死に方こそ、荷風がもっとも恐怖していたものではなかったか。しかし、すべてこういう心配は週刊雑誌の商売にまかせておけばよいことだろう。われわれが問うのは数字の実力でもなく、また死体の姿勢でもない。

態度として、「守本尊」の塁に拠るところの荷風というものは、前後を通じて一貫したもののようである。戦中には、この態度をもって、荷風がよく自分の身柄を守り、文学を守り、またしたがって精神を守ったことはすでに見えている。しかし、このおなじ態度をもって、晩年の荷風はなにを守ったか、なにを守るつもりであったか、目に見えない。いや、目に見えるかぎりでは意味が無い。ひとはこれを奇人という。しかし、この謂うところの奇人が晩年に書いた断片には、何の奇なるものを見ない。ただ愚なるものを見るのみである。怠惰な小市民がそこに居すわって、うごくけはいが無い。まだ八十歳にみたぬ若さにしては、早老であった。怠惰な文学というものがあるだろうか。当人の身柄よりも早く、なげくべし、荷風文学は死滅したようである。また、うごかない精神というものがあるだろうか。当人の死体よりもさきに、あわれむべし、精神は硬直したようである。晩年の荷風はどうもオシャレでない。歯が抜けたらば、これを写真にうつして見せるまえに、さっさと歯医者に行くべし。その歯の抜けた口で「郭沫若[かくまつじやく]は神田の書生」とうすっぺらな放言をするよりも、金石学の権威である郭さんの文集をだまって読んでいたほうが立派だろう。また胃潰瘍というならば、行くさきは駅前のカツドン屋ではなくて、まさに病院のベッドの上ときまっている。これを常識というか。非ず。わたしは変り身の妙のことをいっている。暮春すでに春服とは、こういう気合のものである。この変り身というものが、晩年の荷風にはさっぱりうかがわれない。精神の柔軟性をうしなったしるしだろう。もしかすると、荷風の精神は戦争に依る断絶の時間を突っ切るには堪えなかったのかも知れない。かくのごとくにして、明治以来の、系譜的には江戸以来の、随筆の家はがっくりつぶれた。これも、もしかすると、和朝流の随筆というものは今日の文学の場に運動するに適格でないのかも知れない。

むかし、荷風散人が妾宅に配置した孤独はまさにそこから運動をおこすべき性質のものであった。これを芸術家の孤独という。はるかに年をえて、とうに運動がおわったあとに、市川の僑居[きようきよ]にのこった老人のひとりぐらしには、芸術的な意味は無い。したがって、その最期にはなにも悲劇的な事件は無い。今日なおわたしの目中にあるのは、かつて「妾宅」、「日和下駄」、「下谷叢話」、「葛飾土産」なんぞにおける荷風散人の運動である。日はすでに落ちた。もはや太陽のエネルギーと縁が切れたところの、一箇の怠惰な老人の末路のごときには、わたしは一灯をささげるゆかりも無い。