(巻三十六)ものの影秋の長さを地に置ける(大瀬益太郎)

(巻三十六)ものの影秋の長さを地に置ける(大瀬益太郎)

2月2日木曜日

“突然ブログが見られなくなりました。検索しても見つからなくて、探すいい方法ありますか?”とマリさんから深夜にメッセージを頂きました。

確かに25日からアクセスがまったくなく、ついにお仕舞いかな?と思っていました。ハテナの方で何か不具合がおきたのでしょうか?私の方は投稿も閲覧も支障なく出来ていたので飽きられたのだろうと思っていました。

今朝になり、8件アクセスが有りました。何かの不具合が解消されたのでしょうか。何れにいたしましても、引続きよろしくお付き合い下さい。

8時20分には図書館からメールでシステムの復旧を知らせてきました。

朝家事なし。細君は生協に行き、ついでに花も買って帰った。チューリップは咲きますよね、と念を押して買ったそうで黄色の花が見られるとの由。

昼飯喰って、一息入れて、散歩に出かけた。猫はクロちゃん、サンちゃん、フジちゃん、コンちゃんと交流。

今日は北風だ。散歩は駅前の銀行を目指したが行きは向かい風。ATMでヘソクリ二万円を下ろした。小遣いは月二万円だ。それで散歩の途中でほどほどに一杯やれるのだが、ついつい一杯をやり過ぎる。4ヶ月ぶりの補てんだから月々五千円の赤字だ。小遣いの使途は週に一、二度の一杯で蕎麦屋の寿々喜、黒酢豚で一杯いたす香菜館、モツ焼き屋の里村、おでん屋の平安、餃子の大阪王将、パスタのマルナカ・キッチン、どうしても刺身が食べたくなったときの活々水産である。ならせば一回二千円だから月々の小遣いで賄えるはずなのだが。小遣いの他の出費は猫たちのスナックで5匹全員に振る舞うと1日二百円になる。他には時々の安売り菓子パンや寝酒のトリスとピーナッツを生協で買うくらいか。

趣味がない、付き合いもない。クルマ、カメラ、などの器材には興味がない。パソコンだって8ギガ、64ギガで済ましている。

暇潰しの読書は書籍・雑誌を専ら図書館から借りている。英語学習は無料のPodcastで十分だ。

夜の10時過ぎに20件のアクセスがあった。何が何やら⁉

願い事-涅槃寂滅、酔生夢死です。

死ねる薬を入手するためなら少しは出したいと思っているが、どうせニセ物をつかまされるだろう。入手困難で服毒自裁は現実味がない。

物なくて軽き袂や更衣(高浜虚子)

「持たずに持つこと - 寺山修司」角川文庫 家出のすすめ から

わたしはいったい何を持っているだろうか! と考えることがあります。たとえばわたしはチャーリー・ミンガスやマル・ワルドロンのモダン・ジャズのレコード。あまりスポーティではない何枚かのシャツやセーター。都心の安アパートや古いボクシング雑誌、まわらなくなった珈琲挽き機械を持っています。なかなか標準語化しない青森訛りも持っているし、病歴も、アダムスやスタインベルグの漫画本も持っています。

だが「持っている」といっても、いつも手に持っているわけではない。

おもうときに、おもうように自由にできるから、「わたしのもの」だというふうに考えている、という程度のことなのです。

だが、おなじような意味でなら、わたしは広い空全体を持っているし、東京の町も持っているということもできるのです。つまり「おもうときに使用しても、文句をいわれない」という意味でなら、わたしの所有の範囲はぐんと広まるのであって、......とくに「わたしのもの」と主張しなくとも、わたしはさきにあげた以外の数え切れない多くのものを「持って」おり......、言葉をかえていえば、かなりの財産家である、ということもでかるのです。

イヴ・クラインという、変死したフランスの画家の日記的な十六ミリ・フィルムを、先日、機会があって見せてもらいましたが、彼など何如にも前衛らしく、パリ全部を所有しているのでした。たとえば彼は、フィルムのなかで、わたしたちに一篇の美術作品を見せるといいます。

そして画廊なかで、青い一枚のカーテンをめくって見せるのですが、カーテンのかげにあるのは、彼の描いたパリの町の絵ではなくて、ほんもののパリの町そのものなのです。

クラインは、カーテンをくぐって、その町にでてゆき、パリのさまざまの建物や石段の上に自分の影をうつします。そして、その動く自分の影と、パリの町そのものでもって「パリ」という彼の一篇の作品だ......というわけなのです。(そんな作品を見ながら、わたしはクラインのパリをおもい、同時にわたし自身のパリをおもうわけですが、所有というのは本来、そういうものでしかないのではないでしょうか)

二十三歳になるフランスはブレチニー・シュル・オルジュの娘は、「持つこと」についてこんな意見を「アール」紙にのせています。

「同じ若い世代の人たちのささやかな野心のみすぼらしあ!まじめにはたらき、サハラを灌漑する。LPセットときれいな妻といい子どもをもつこと。一週に一度は教養をえようとつとめる。確実な価値(正直、洗濯機、サン・テクジュベリなど)をえらぶこと。ああ、なんとなくむなくそわるい計画!こんなものは飼いならされた家畜の理想だ。洗濯機を中心に夢想はできやしない。

もちたい、もちたい!彼らはすべてのものをもちたいとのぞむ。いったい彼らにとっては何かのために生き、また死なねばならぬというものは存在しないのだろうか!」(生島遼一訳)

この不満は、一九五七年にフランスの青年(おもに大学生たち)たちからとったアンケートの結果にむかって叩きつけたものですが、わたしもまったく賛成するものです。

(フランス学生たちの、このアンケートの結果は尊敬する画家がゴッホピカソであり、映画監督はルネ・クレールブレッソンであり、好む徳目は正直さ、誠意。そしてベートーベンとバッハを愛するという、きわめて確実な価値の信奉者であることをあきらかにしたものでした)

この二十三歳の娘はロートレアモンやアンリ・ピシェットの詩人を問題にせよ、といっているのですが、そのことは、いってみれば小市民的所有の感覚へ、斧の一撃をくらわせよ!ということにつながってくるわけです。

つまり、わたしがさきにあげたように、自分の「持っているもの」などというのは、たんに自分が管理している、というだけのことであって.......しかも、そのことだけを比較するならば、誰も博物館の番人ほどにたくさんのものを「もつ」ことはできないでしょう。

けちくさい所有の単位として「家」を考えるくらいなら「家」などは捨てた方がよい。死体置場の番人になるくらいなら、町の群衆全体を「所有」する方が、はるかに人生に参加する意味が。

問題は、むしろ、「家」の外にどれだけ多くのものを「持つ」ことができるかによってその人の詩人としての天性がきまるのであり、新しい価値を生みだせるのだ......と知ることです。