2/2「鴨長明と方丈の庵 - 中野孝次」文春文庫 清貧の思想 から

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2/2「鴨長明と方丈の庵 - 中野孝次」文春文庫 清貧の思想 から

長明氏が出家遁世したのは五十のとしで、これは二十三歳で世を捨てた西行、三十ごろには沙弥[しゃみ]になっていた兼好とくらべてもずいぶん遅い。遅いばかりでなくその遁世も、自分から仏道に志したためではなく、執着しぬいた世の中からはじき出されるようにして山に入ったのだ。『方丈記』には、
- 五十ノ春ヲ迎ヘテ、家ヲ出デ世ヲ背[ソム]ケリ。
と、あっさりきれいごとに書いてあるが、実際は年来の宿願(彼はいつかは下賀茂社の正禰宜そう[難漢字]官になりたいと願っていた)がついに叶えられなかったので、ふくれて家に籠り、和歌所への出仕もやめ、ついに山に遁世するしかなくなったのだ。彼に好意をもつ源家長もその日記にそういう長明氏の心持を、
「こはごはしき心」
と評して、そのロバのような強情さにあきれかえり、サジを投げている。
そんなふうにして心ならずも五十歳で山中に遁世せざるを得なくなったのだが、ひとたび方丈の住居を始めるとそれを全面的に肯定し、いわば方丈の哲学といったものを作ってしまうのが鴨長明だった。己れを貫くためついに山中方丈の住居にまで自己の社会的生存形態を縮小しきって、そこでのみ、
- 夕ゝ、仮ノ菴ノミ長閑ケクシテ、恐レナシ。
と安心できることを誇っている。仏法のためでもなく誰のためでもなく、すべては己れ一個のためにしたことだというのである。
- ワレ、今、身ノ為ニムスベリ、人ノ為ニツクラズ。
わたしはこういう文章を読むとそこに、この国の中世初めにすでにこれほどはっきりした自己認識を持つ人がいたという事実に感歎せずにいられないのである。ひたすら自分のために、自分の心の満足のために生き抜き、他を省みない人物が、ここにいる。これは驚くべきことである。
これを現代のこととして言えば、会社人間としてひたすら会社のために働きつくして来た人が、社内の人事や組織と衝突して、そのままならぬことに絶望し、会社勤めのごときことに望みをかけることなく、一念発起してどこか過疎村の廃屋にでも住み、だれにも拘束されぬ自給自足の百姓生活を始めたようなものだろうか。別に仏道修行しようというのではない。ただ気ままに、己れ一人の心身の自由と安心のために、世間一般とはちがう生活を始めるのである。そのとき果たして、この長明氏のように、
- 夕ゝ、仮ノ菴ノミ長閑ケクシテ、恐レナシ。
と言い切れるかどうか。そう言い切れる人がいたら、わたしはその人を尊敬する。それこそ真に人間らしい生を選んだ人だと思うからだ。長明氏ではないが、人が幸福かどうかは外見ではわからぬ、物の見方のコペルニクス的転回さえ行えば、人に拘束されぬ山中の貧しい暮しにこそ真の平安があるかもしれないのだ。
そしてこのように、
- 夫[ソレ]、三界ハ只心ヒトツナリ。
衆生が活動する全世界は「心ヒトツ」の持ちよう如何で価値が逆転する。自分はもし安らかな心が得られないのであれば宮殿・楼閣も望まぬ、いま自分は乞食同様の身となったのであるが、山に帰ってここにいるときは世間の人が名利の世界にあくせくしているのを憐む気になると、こういう価値の逆転を行わせた原動力が仏教であったわけだ。鴨長明は決して他の出家者のように仏道修行一途の者ではなかったけれども、それでもこういう心境をたのしむことが出来た。
人間が自己をまっすぐに支えるには、こういう目に見えない存在に対する畏れを持つことが必要なのかもしれない。
昔わたしは高等学校で哲学者カントの「天にあっては星の輝き、地にあっては心の律」という言葉を知り、感激したものであったけれども、洋の東西を問わず天を畏れる心と己が心の律を守る心とは、たがいに相通じるのであろうか。
前に取上げた光悦とその母妙秀とは、熱烈な法華門徒であったが、法華宗とは限らぬ、神仏と呼ばれる存在を敬い畏れる心が、かれらに人間としての品位を与えたのだとしたら、それを失ったことが現代人を支えのない存在にしてしまったのかもしれぬという気がする。
とにかく鴨長明は、方丈という最小限の空間に住みながら、そこで音楽をたのしみ、利得にあくせく奔走しないでいられる生活を誇りとしたのだった。またその心境をよしとする人がいたからこそ、彼の『方丈記』は今日まで読みつがれて来たのであろう。こういうふうにして人から人へ目に見えない糸で伝えられて来たもの、それをもし文化の伝統というなら、その伝統をわたしは尊いものに思うのだ。