2/2「終わりは自然 - 養老孟司」中公文庫 ぼちぼち結論 から

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2/2「終わりは自然 - 養老孟司」中公文庫 ぼちぼち結論 から

私はべつに田舎に住んでいるわけではない。しかし心底から雑念を去ってすることといえば、虫捕りであり、新緑を見ることである。そこに「吸い込まれてしまう」のだから仕方がない。そういう心の持ち方こそ、幸せと人が呼ぶものではないか。虫は都会を除けばどこにでもいる。日本の国土には小さな山々が数知れずある。それを見て楽しむ癖さえつけば、幸せなんて、いくらでも手に入る。
なにも歩かなくたっていい。ただ見ているだけで、さまざまな想いが浮かんでくる。若い時ならそれだけで胸がいっぱいになった。恋愛だ結婚だというのが、私にとってさしたる大事件とは思えなかったのは、他方に自然界があったからである。世の中が面倒になったら、虫捕りに行けばいい。はるか昔の、狩猟採集民の遺伝子が残っているのかもしれない。
三月の初めは台湾の山中にいた。相変わらずの虫捕りだが、台湾にも虫の愛好者が現れてきたのである。経済面が楽になって、しかも自然がある程度残っている。そういう社会では虫捕りが繁栄する。といっても、金儲けに走る人数とは、もちろん比較にもならない。会社が潰れたからって、なんで自殺するんだという話になる。会社が潰れたら喜んで虫捕りに行っちゃうんだが。一人がそういうと、もう一人がいう。会社を潰して、虫捕りに行ったやつもいるよ。
三月の終わりは今度はラオスだった。乾季のいちばん暑いときで、しかも焼畑が盛りである。森に火をつけて焼くから、大げさにいうと、ラオス中がいぶっている。煙で風景がかすんでしまう。焼き跡でまだ火がくすぶっているときに、倒れた木にはもうカミキリムシやタマムシが集まっている。足元は火であぶられ、上からは太陽に照らされる。暑いなんてものじゃないが、そういうところで嬉々として虫を捕っている。ゾウムシは一種類だけ、ただしいくらでもいるから、いつの間にか百匹以上捕まえてしまった。それを全部標本にすると、手間がたいへんである。まあ自業自得で、仕方がない。
ところがそういう標本を作っていると、気持ちが落ち着く。じつは私がいちばん好きな作業は、標本の作製なのである。解剖も似たようなものだった。ただし解剖は仕事だったから、どこかに義務感が付着している。これがいささか邪魔だった。おかげで至福の境地には至らない。どうやって論文にするかとか、はたして発見があるだろうかとか、邪念や雑念が入ってしまう。虫の標本作りにはそれがない。まったく実用性がなく、研究上の必要性もないに等しい。むしろ標本を作ってしまったから、研究でもするか、に近い気分である。そういう作業が大好きとは、どういうことであろうか。
ラオスから戻ってほぼ一週間、標本ばかり作っていた。それでもこれから標本にしなければならない虫が、まだかなり残っている。標本を作っていた時間はほとんど無念無想だから、記憶に残らない。肩が凝ったとか、背中が痛いとか、そういう跡しか残らないのである。出来上がった標本があるから、作業をした痕跡は歴然としている。
黙って手作業をしているのが至福の時間だというのは、職人の世界であろう。確かにそれに近いところがあって、たとえば道具に凝りだす。作品のできばえは、道具に影響される面が大きい。そこで道具探しになる。標本用の道具の市販のものなんて、わずかしかない。それも自分に使いやすいとは限らない。だんだん凝って、道具を自分で作るようになる。私はそこまではやらないが、ありとあらゆる商品を探す。紅茶漉[こ]しは二種類使っている。虫の洗浄用である。大きいのと小さいのがある。説明を加えてもいいが、呆れられるだけだと思うので、その二つがどのように違うかについては省略する。関心のある人は、この種の話だけは、日経BPのホームページで毎週やることにしたから、ご覧いただきたい。
自然に直接に接すること、そこからなにかを情報化すること、それが私がやってきたことである。人間世界で人間を相手にすることは、最小限に止めてきた。それでここまで、よく生きてこられたと思う。おかげさまでといわなければならないが、ふつうの人がそういう時と、いささか意味が違うであろう。長年お勤めをして皆様のお世話になりました。おかげさまで無事に定年が迎えられました。それがふつうだと思うが、私の場合には、おかげさまでなんとか世間に居場所を与えていただきました、という意味である。鴨長明西行芭蕉、あるいは戸沢白雲斎や塚原卜伝、あるいは白隠禅師、私の頭にある老人といえば、そういう人たちである。そういう先輩方がたくさんおられるのだから、余生は虫の標本作りだけで十分であろう。
それでも虫にこだわっているところがまだまだ生臭い、最後にどういうべきか、あれこれ考えてはみるが、お世話になりましたという相手は、じつは虫だといったら、叱られるに決まっている。こういう人間を置いてくださった世間様に、やはり感謝すべきであろう。