(巻二十三)餅も酒も皆新米の手柄かな(井上井月)

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9月19日水曜日

初秋らしいお天気でございまして、まことに結構でございます。
また、帰り道では虫の声が聞けました。

補陀落も奈落もあらむ虫の闇(根岸善雄)

ラジオ

BBCポッドキャストで“Why are so gloomy about the world”というタイトルの解説番組を聴きました。ちゃんと理解しているかに疑問はのこりますが、人類はその起源から心配性だそうです。ですから、暗く悲観的なニュースに食い付く傾向があり、めでたいハッピーなニュースは売れないそうです。 
この心配性は生存していくために、悪いことを前もって察知して回避して行かなければなからなったという
必然があったそうです。

ステテコや生きる心配死ぬ心配(高橋悦子)

先の長い方々は悪い前兆について感覚を研ぎ澄まして置かなくてはならないでしょうが、あたしなんぞは世事から己を隔離して遁世し、静かな終末を迎えたいと願っております。

さても猶世を卯の花のかげなれや遁れて入りし小野の山里(吉田兼好)

本

「豆腐談義 - 邱永漢」中公文庫 食は広州に在り から

を読みました。

《 私の父は家庭においても、料亭に行っても、自分が言いつけた順番に料理を出してこないと、「おまえは足のほうから先に生まれたのか」と文句を言っていた。食い盛りの子供時代に私はいささかけげんな面持ちで、父のことばを聞いていたが、胃袋の容積がだいたいきまってからはなるほどと思うようになった。「すべて物事には順序がある」という考え方を私は胃の腑で覚えたことになるらしい。
ところが、この順序なるものはもともと人間がつくったものであるから、これに反逆を試みることもできれば、全然無視することもできる。たとえば、スープならスープばかり先にすすり、あとで固形物ばかり押し込む西洋料理のマナーを無視して、日本料理の流儀でいっしょに並べておいて好きなときに代わる代わる食べたら、どんなにうまく味わうことができるかしれないと思う。その意味では私は無手勝流のやり方に反対ではない。「昔は棺桶の心配は子供がしたものだが、いまは自分でしなければならなくなった」老人たちの悲哀を、かつて私は老人の立場から小説に書いたことがあるが、家族制度が崩れていく過程にだってその必然性があるはずである。それと同じように、今後、料理の世界にだって「彼は昔の彼ならず」ということが起こりうるだろう。その場合、私は「長幼序あり」などとしかつめらしい立場からではなく、あくまでも合理主義の立場から是非を判断したいものだと思っている。》

料理の話に挟んである教訓やお考えがためになる食い物随筆であります。

湯豆腐やいのちのはてのうすあかり(久保田万太郎)