「生きていた新撰組 - 太田俊穂」文春文庫 巻頭随筆2 から

イメージ 1


「生きていた新撰組 - 太田俊穂」文春文庫 巻頭随筆2から

明治二十八年の秋、時の岩手県知事服部一三が、東京府士族奥田松五郎と名乗る五十がらみの色の黒い小男を警察部長の樋脇盛苗に引き合せて『柔術と剣術がよく出来る男だが何とか使ってほしい。東京のさるお方からのたっての頼みなのだ』といって『ただし、経歴は一切きかないでほしい。当分盛岡においてくれとのことだ』とつけ加えた。
翌日警察の道場で猛者連とたたかわして見ると、横捨身と巴投が水際立って美しく、まともに相手になれる者はなかった。流儀は、ときくと『起倒流天神真楊流を少々』と答えた。竹刀をとると二、三人たちまち目にもとまらぬ早業で小手をとられた。この方は流儀をきいても『さあ、人斬り流かな』と笑うだけであった。歯切れがよく少し崩れた江戸弁である。
早速『岩手県巡査』として採用し、柔術の教師にした。妻子もなく、一人ぐらしだった。稽古は実に熱心で、一日も欠かさない。当分ということだったがいつの間にか五年たった。その間に服部知事が転任した。そのころ、誰いうとなく『奥田先生のところへ仇討に来た男があるそうだ』と噂が立った。上司がそれを確かめると一笑に付したが間もなく辞表を出して『奥田流柔術指南』という看板をかかげて小さな道場を開いた。暫くして今度は、『奥田先生は昔、新撰組にいたことがある』ということが弟子達の口から洩れるようになった。
私が、この老人をよく見かけたのは大正六、七年ごろである。小学校へ通う途中にある小さな二階建ての家に住んでいて、天気がいい日など、前のドブ板の上で刃を磨いでいた。軒下に、当時としては珍しい九官鳥の籠が下がっていて『オハヨウ、オタケサン』と鳴いていたのをおぼえている。
その後望まれて盛岡中学の柔道教師となり多くの人に親しまれながらも、時々チラリと見せる殺気から敬遠され勝ちたったという。私が盛岡中学に入った時はすでに教師の職を退いて内弟子のみとなっていたが、たまに学校に姿を見せて高学年の生徒を相手に稽古をつけることもあった。時には隣り合せの剣道の道場でも竹刀を振ったが、激しい気合にみな圧倒された。『あれは人を斬ったことのある気合だよ』と剣道の教師が眉をひそめた。武徳会の範士となったのは、それから二、三年後のことである。
後年、私が新聞記者になってから、この奥田老人と親しくなった。晩秋のある寒い日、風呂敷に柿をつつんで記者クラブに現われ『今日は新撰組を脱退して斬られた伊東甲子太郎の命日でね。たいへん世話になった人なので好きな柿を仏前に供えて来た。これはその残りだよ』と、みんなへ振舞ったことがある。伊東が一党を率いて薩摩と気脈を通じて近藤勇一派に京都の油小路で斬られたのは慶応三年十一月十八日である。おそらく、その日は祥月命日だったのであろう。
遊びに来いというので、思い出話でも書こうと思って、一週間程、毎夜のような老人の家へ通ったことがある。腑におちない点もあったが、話が新撰組になると、つきるところを知らなかった。ほぼ同年輩の隊士になると『沖田総司君、藤堂平助君』などと友達扱いだった。
盛岡に来て間もないころ、近藤の前の局長芹沢鴨と共に危うく、土方らに殺されかけて逃亡した平間重助に遇った時は驚いたといっていた。平間は当時岩手県の養蚕教師をして県内を廻っていたが、ゆっくり昔話をしようと思って県庁を訪ねたが、そういう名の男はいないていわれた。『あの男のことだからいい加減な名前を使っていたに違いない』と笑っていた。
坂本竜馬中岡慎太郎を京都で暗殺したのは近藤勇でないことは定説となっているが、老人は『あれは近藤さんのやったことだ。俺だけが知っている』と譲らない。これに類すること多々あった。例えば西郷隆盛の死についても『城山では死んでいない』と自信を持って断定する。西南戦争には政府軍の密偵として鹿児島へ深く潜入していたというから何らかの根拠があってのことだろう。
明治、大正の時代には『新撰組』に関することは殆ど口にしなかったようだが、私が知ったころにはそれが何よりの自慢だった。谷三十郎原田左之助といった有力隊士の名はこの老人から聞いたのが最初である。後に下母沢さんの『新撰組遺聞』を読んで、一々思い当たることがあった。
彰義隊にも参加したといっていた。上野の戦争に敗れて脱出する時、雨の中で、はじめて敵を二人斬ったが、その時の恐しさは思い出しても寒気がするし、時々夢にも見るよ、と肩をすくめて見せた。その時背後から鉄砲をうたれたが、背負っていた摩利支天の掛軸が身代りになってくれたといって、焼けつぶれのある古い軸をかけていた。
老人は昭和六年十一月二十八日狭心症で死んだ。墓は盛岡の永祥院という禅寺にある。行年八十二となっているが、墓を建てる時、その年が果たして本当かどうかだいぶもめた。
四十年近くも盛岡に住みつきながら市役所の戸籍簿には一度ものらなかった人だから本当の年はわからない。私も何回かきいたがその度に口をにごして答えなかった。どうも実際はこの年より五つ位多いような気がする。
思えば私の長い新聞記者歴の中で多くの人物が走馬燈のように点滅して行ったが、奥田老人のような不思議な人も余りいない。黒いよれよれの稽古袴をはき、革のヒモのついた長い杖をはなさなかった老人の影がいつまでも私の眼底から消えない。