「ツッコミとボケ - 藤本義一」中公文庫 男の遠吠え から

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「ツッコミとボケ - 藤本義一」中公文庫 男の遠吠え から

笑っている夫婦を見かけるのはいいものである。
笑い合っている恋人同士を見るのは気持がいい。
笑い合っている二人も気持がいいが、それを見ているこちらもまた気分がいい。だから、化粧品にしろ繊維にしろ、銀行にしろ、CMに老若男女の「笑顔」を使う。
微笑から爆笑までの種類は多い。なかには嘲笑とか?[難漢字]とかいう字で表現されるワライもあるが、笑の字で表現されるワライはいい。
微笑湛[たた]えている女性を女房にした男は倖[しあわ]せ者である。極端にゲラゲラ笑いの女を女房にした男も倖せである。
笑いというのは余裕である。
箸の転ぶのも笑うという年頃の女の子は可愛いものである。
ところで、最近の女性は、この笑う可愛さを忘れてきたのではないかと考えてみる。
茶店で、十年ほど前はデート中の女性が笑っていたのをよく見かけた。ところが最近はあまり見かけない。
そこで実証してみようと、大阪・梅田の喫茶店に入って一時間半観察してみた。微笑、あるいは小さな声で笑ったのは、なんと二割ぐらいであり、後は男が微笑している。なんともこれはおかしな時代になったものだと感じた。
そこで、ふと奇妙偶然に気付いたのだ。最近の漫才には、ツッコミとボケが次第になくなってきている。太夫と才蔵があって三河万歳や尾張万歳が成立したわけで、このツッコミとボケの妙が万歳の芯であり、それは万歳が漫才になっても延々とつづいていたものである。それがいつの間にか大変曖昧になってきた。どちらがどちらかわからないのが現代の漫才である。
ちなみにダイマル、ラケット御両人の漫才を聞いてみた。そこには、ちゃんとツッコミとボケの味があった。が、若い漫才師にはない。
そこで横山やすし君に聞いてみた。
「いつから、ツッコミとボケがなくなったのか」
と。
「さあ、ぼくらがやりはじめる前から、そのかたちは徐々になくなってきたようですな」
という。
すると十年、あるいは十二、三年前から、漫才は大きく原型を変えてしまったことになるのである。
そこで、またもや、偶然に出くわした。
そのあたりから、共稼ぎ、共働きということが表面に出てきて、ウーマンパワーという語が出てきたようである。女上位の時代の進行で、本来はボケ役であった女性が、ツッコミ役に変貌した結果、男が受け身のボケ役にまわりはじめたようなのだ。どうやら、女の笑いは、このあたりから影をひそめ、漫才は混乱してきたようなのだ。
ボケとツッコミを漫才でいうなら、どちらの方がむずかしいかというと、これは「ボケ」なのだ。ツッコンでくる言葉をふわりと受けとめて、笑いの醍醐味をつくってくれるわけである。そこで観客は笑いを誘い出されるのだ。だから、技術的にいうと「ボケ」役割は大きい。野球でいえば捕手であり、扇の要[かなめ]的要素をもつのである。
本来、女は、この要であったはずなのだが、これが一転してツッコミになったので、女たちの顔から次第に笑いが消え去ってしまったらしい。
昔なら、亭主がガンガンいうと、これを軽く聞きながして、
「まあ、まあ、いいじゃないのよ」
といっていた女房族が、今では亭主に猛然と噛みつく姿勢をもちはじめたようだ。
ボケ役じゃ納得できないじゃないのと居直りをみせはじめた結果、笑顔がすっぱりと脱け落ちてしまったようである。
本来、「ボケ役」は賢明だからやれたわけなのだ。
それをかなぐり棄てたとなれば、女たちは、自らの賢明さを放棄してしまったということになるのではないか。恋人とデート中も、なんとかツッコミの姿勢で男と対そうというから、ほとんど笑いがなくなってしまったのではないかと思われる。
こういう女が家庭に入ればどうなるか。
もろに、次のような言葉を吐くのではないか。
「あたしがいなけりゃ、一体この家はどうなるというのよ」
言葉でいわなければ、態度で見せるのではないか。
つまり、亭主に対して、なんの感謝も持たない主婦になってしまうのではないか。
もう一度、女たちはボケの賢明さとそこに生まれる笑顔と、そこにかもし出される女の美徳について考えてみたらどうであろうか。