「映画に現われたユーモア - 獅子文六」ちくま文庫 文豪文士が愛した映画たち から

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「映画に現われたユーモア - 獅子文六ちくま文庫 文豪文士が愛した映画たち から

芝居と、小説と、映画と、三つ較べてみると、ユーモアを味わうのに、最も便利な方法は、映画ではないかと思う。一番割りの悪いのは小説で、ほんのツマらないユーモアを産み出すのに、何百も何千も、原稿紙の字穴を埋めて行かなければならないのだから、バカバカしい。ちと、御同情ありたきものだ。
いつかも、なにかに書いたことだが、昔の電気館のニコニコ大会ぐらい、生涯のうちで笑わされたものはない。尤も、あれをユーモアの笑いといえるかどうか、という事になるとムツかしくなるが、そんな問題は別にした。ともかく可笑[おか]しい事は、非常に可笑しかった。笑いに酔って、涙が出ることさえあった。考えてみると、西洋風の笑いに影響されたのは、後にマークトウェンだとか、カミだとかを読んだ時よりも、年少の頭脳に印象されただけに、あのニコニコ大会の映画から受けたものの方が、大きかったのではないかと思う。それは、その頃愛読していた漱石の「坊っちゃん」の笑いでもなければ、鯉丈の「八笑人」の笑いでもない新しい笑いで、初めてシュークリームを食った時のような悦びだったと思う。
とにかく、新馬鹿大将やハム君チビ君から、ルネ・クレールの諷刺映画に至るまで、僕は実に長いこと、映画のユーモアを見せて貰ったことになる。その間実に、多くの喜劇映画の型や質が現われた。チャップリン映画は云わずもがな、マック・センネットのエロチック喜劇、降ってウィル・ロジャースの静かなユーモア、それからマルクス兄弟の瘋癲的ユーモアなぞ、一寸考えただけでも、いろいろある。
マルクス兄弟といえば、あのユーモアは、かなり珍らしいものであった。ファンテエジイなぞという、生易しいものではない。純然たるグロテスクである。観ていると、眼が回る。頭が痛くなる。気持が悪くなる。精神病院を参観してる時のような気持になる。巴里の芸術家達が、マルクス兄弟を礼讚したのは、決して単なる気紛れではないと思う。あんなユーモアば滅多に現われないだろうし、また、あれ一つで結構な代物でもある。
チャップリンを道化役者としてでなく、笑いの詩人として最も早く認識したのも、やはり巴里の芸術家だった。僕はチャップリンの映画は殆んど全部観た積りであるが、最後に巴里で観た「街の灯」は、それほど感心しなかった。あんなに感傷的、自己惑溺的になっては、ユーモア芸術としてのみならず、作品としても面白くないと思った。彼は十九世紀的なものを多分にもっているから、今のように自由な境遇になれば、ああいうものが出てくるのだと思う。やはり、頂点作は「キッド」を推すべきだろう。大衆的ユーモア作品として、ディッケンズの小説と匹敵すると思う。
ルネ・クレールの作品になって、初めて、われわれは現代の笑いに接し得る。一体、クレールの映画を、笑いの方面から見ないで、なにかムツかしい理窟をつけなければ承知の出来ない一部の人々には、賛成できない。諷刺というものは一部の人々の考えているように、カンカン・ガクガクのものではない。それに、クレールの諷刺というものが、なにもそれほど考え込まねばならぬような、深遠なものでもない。彼もまた、多少の意味で、映画を商品として制作しているのだから、人々を娯しませることを忘れるわけがない。
実際、チャップリン以後、シンからわれわれを笑わしてくれるのは、クレールのほかにない。「自由を我等に」でも、「幽霊西へ行く」のようなものでも、実にオカしくてオカしくて、耐らん場面がある。前者の刑務所の作業室とか、後者の大西洋の船中とかに、そんな場面がある。昔、チャップリンの身振りがオカしかったように、今度は、監督の芸がオカしいのだ。クレールの場合は、アイデアで笑わせられることが多い。「ル・ミリオン」「巴里祭」「最後の億万長者」皆もう一度観たいものばかりだ。クレールの「笑わせる映画」の最初の作品は、ラビッシュの喜劇「イタリーの麦藁帽子」を撮ったらしいが、それは観ていない。
話は変るが、佐々木邦氏なぞは、漫画の映画を観て、少しもユーモアを感じないばかりが、肉体的苦痛を起すと云っている。実際、視覚的にひどく疲れさせられる代物である。最初はあんなではなかったが、技術が豊富になって、却って、刺戟を追い過ぎるようになった。しかし考えてみると、あれはアメリカの子供に観せる映画である。アメリカの子供というものは、始末にいけないラフな神経を持っているから、あれで、ちょうど感度が合うのだとも思う。僕は大人の観る漫画映画が、どうして早く出来ないのだろうと、いつも不審に思っている。大人の漫画だったら、恐らく、ヨーロッパの方が面白いものができるだろう。荒唐無稽なユーモアを生むのだったら、どうしたって、線画に敵[かな]う方法はあり得ない。
線の映画ぐらい、大きな将来性をもっているものは無いかも知れない。活動写真が、新しいダイメンションを発見することになる。僕はよく考えるのだが、歌麿がまだ生きていて線画の製作に従事したら、どんなことになるだろうという事だ。あのニョロニョロした手脚の線が動き出し、あの細い眼がウインクし、あの衣服の襞が揺れたら、実に破天荒な観物だろうと思う。ただ、声だけは一寸想像できないが、これは富本とか薗八とかいう音楽を借りたら、解決できるかも知れない。
日本映画に現われたユーモアを語る資格を僕はあまり持っていない。殆んど何も観ていないといっていい。だが、演劇の方で喜劇が最も遅れている現象は、恐らく、映画にも発見できるのではないかと思う。第一にユーモア映画のよき企画少き事、第二に、よき喜劇俳優乏しき事等が、原因ではないかと思う。喜劇を添物と考え、喜劇俳優をデブ男、オカメ女の異名と考えるうちは、よいユーモアが画面に生まれるわけがない。
だが、藤原釜足という役者だけは、僕の狭い見聞のうちで最も嘱望し得る一人だ。およそ彼ぐらい、平凡な一日本人の体躯容貌を備えた役者はない。まるで、平凡の典型の如きパーソナリティである。そこに、彼の絶大なる強味があるのだと思う。彼は、あらゆる平凡な日本人の笑いと、悲しみを唄う資格をもっている。芸からいっても、素直で、真実で、P・C・L有数の技術者である。
僕は「坊っちゃん」の中のウラナリを観て、彼に注目し始めたのだが、その後、大体に於て、期待を裏切られていない。しかし、会社や監督は、彼を充分に生かして使っているかどうか、疑問だと思う。「唄う世の中」なぞというのを観ると、アメリカ映画臭い雰囲気の中に、彼の芸はまるで調和しない。キートンの真似みたいな事をやっているが、器用にコナしているだけのもねだ。あんな事をやっていては、当人の損でもあり、会社の損でもあると思う。前にいう通り、彼は現代日本人として濃い属性をもってるのだから、日本の現実から生まれた役、演技を与えなければ、ウソである。僕は彼の主演で、牛乳配達かなんかの生活を、シミジミ描いた喜劇が観たい。日本の現代の真実がそこに示されれば、とりもなおさず、それがよいユーモア映画になるわけだ。
(一九六九)