「海外に出て行く。新しいフロンティア(抜き書き其の三) - 村上春樹」新潮文庫 職業としての小説家 から

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「海外に出て行く。新しいフロンティア(抜き書き其の三) - 村上春樹新潮文庫 職業としての小説家 から

僕がこのように積極的にアメリカのマーケットを開拓しようと思い立ったのは、それまでに日本国内でいろんなあまり面白くないことがあって、「日本でこのままぐずぐずしていてもしょうがないな」と実感するようになったことが大きいと思います。八〇年代の後半のいわゆる「バブルの時代」で、日本で「物書き」として生活をしていくことは、さしてむずかしいことではありませんでした。人工は一億を超え、そのほとんどすべてが日本語を読むことができます。つまり基礎的な読書人口はかなり多いわけです。それに加えて日本経済は世界中が目を見張るほど好調で、出版界も活況を呈していました。株価は上昇の一途で、不動産も高騰して、世の中にお金がだぶついていますから、新しい雑誌が次々に創刊され、雑誌にはいくらでも広告が集まってきます。書き手としても原稿依頼には不自由しません。当時は「おいしい仕事」もたくさんありました。「世界中、どこでも好きなところに行って、いくらでも経費を使って、好きなように紀行文を書いてください」みたいな依頼もありました。知らない人から「このあいだフランスのシャトーをひとつ買ったので、そこに一年ばかり住んで、のんびり小説を書いてみませんか?」というゴージャスな申し出もありました(どちらも丁重にお断りしましたが)。今から思えば信じられないような時代です。小説家にとって主食とも言うべき小説自体はさほど売れなくても、そのようなおいしい「おかず」で十分生活していけたわけです。
しかしそれは四十歳を目の前にした(つまり作家としてとても大事な時期にある)僕にとって、歓迎すべき環境とは言えませんでした。「人心が乱れる」という表現がありますが、まさにそのとおりでした。社会全体がざわざわと浮ついていて、すぐお金の話になります。じっくり腰を据え、時間をかけて長編小説を書こうというような雰囲気じゃありません。こんなところにいたら、知らないうちにスポイルされてしまうかもしれない - そういう気持ちが次第に強くなってきました。もっと張つめた環境に身を置いて、新しいフロンティアを切り拓きたい。自分の新しい可能性を試してみたい。そう考えるようになりました。だからこそ僕は八〇年代後半に日本を離れ、外国を中心に生活するようになったわけです。

もうひとつ、日本国内における僕の作品や僕個人に対する風当たりがかなりきつかったということがあります。僕は基本的に「欠陥のある人間が欠陥のある小説を書いているんだから、まあなんと言われても仕方あるまい」という風に考えていますし、実際に気にしないようにして生きてきたのですが、それでも当時はまだ若かったし、そのような批判を耳にして、「それはあまりにも公正さを欠いた言い方ではあるまいか」と感じることはしばしばありました。私生活の部分にまで踏み込まれ、家族も含めて、事実ではないことを事実のように書かれ、個人攻撃されることもありました。どうしてそこまで言われなくてはならないんだろうと、(不快に思うよりはむしろ)不思議に感じたものですが。
それは今から振り返ってみれば、同時代日本文学関係者(作家・批評家・編集者など)の感じていたフラストレーションの発散のようなものではなかったのかという気がします。いわゆるメインストリーム(主流派純文学)が存在感や影響力を急速に失ってきたことに対する「文芸業界」内での不満・鬱屈です。つまりそこではじわじわとパラダイムの転換がおこなわれていたわけです。しかし業界関係者にしてみれば、そういうメルトダウン的な文化状況が嘆かわしかったし、また我慢ならなかったのでしょう。そして彼らの多くは僕の書いているものを、あるいは僕という存在そのものを、「本来あるべき状況を損ない、破壊した元凶のひとつ」として、白血球がウィルスを攻撃するみたいに排除しようとしたのではないか - そういう気がします。僕自身は「僕ごときに損なわれるものなら、損なわれる方にむしろ問題があるだろう」と考えていましたが。
村上春樹の書くものは所詮、外国文学の焼き直しであって、そんなものはせいぜい日本国内でしか通用にしない」というようなこともよく言われました。僕は自分の書くものが「外国文学の焼き直し」だなんてちっとも思わなかったし、むしろ自分は、日本語のツールとしての新しい可能性を積極的に追求し模索しているつもりでいたので、「そう言うのなら、僕の作品が外国で通用するかしないか、ひとつ試してみようじゃないか」という挑戦的な思いは、正直言ってなくはありませんでした。僕は決して負けず嫌いな性格ではありませんが、納得のいかないことは納得がいくまでとことん確かめてみたいと思うところはあります。
それにもし外国を中心に活動できるようになれば、そういう日本国内のややこしい文芸業界と関わり合う必要性も少しは減ってくるかもしれません。何を言われても知らん顔で聞き流していればいい。僕にとってはそういう可能性もまた、「ひとつ海外でがんばってみよう」と思う要因になりました。考えてみれば、日本国内で批評的に叩かれたことが、海外進出への契機になったわけですから、逆に貶[けな]されてラッキーだったと言えるかもしれません。どんな世界でもそうですが、「褒め殺し」くらい怖いものはありません。
僕が外国で本を出していちばん嬉しかったのは、多くの人々(読者や批評家)が「村上の作品はとにかくオリジナルだ。他の作家が書くどんな小説とも違う」と言ってくれたことです。作品自体を評価するにせよ、しないせよ、「この人は他の作家とは作風がまるで違う」という意見が基本的に大勢を占めていました。日本で受けた評価とはずいぶん違っていたので、それは本当に嬉しかった。オリジナルであるということ、僕自身のスタイルを持っているということ、それは僕にとってのなによりの賛辞なのです。
しかし海外で僕の作品が売れるようになると、というか売れていることがわかってくると、日本国内で今度は「村上春樹の本が海外で売れるのは、翻訳しやすい言葉で、外国人にもわかりやすい話を書いているからだ」と言われるようになってきます。僕としては「それじゃ、前と言ってることが真逆じゃないですか」といささかあきれてしまうんだけど、まあしょうがないですね。ただ風向きを測り、確かな根拠もなく気楽に発言する人が世の中には一定数いるんだと考えるしかありません。
だいたい小説というのは、あくまで身体の内側から自然に湧き上がってくるものであって、そんなに戦略的にひょいひょい目先を変えていけるものではありません。マーケット・リサーチとかやって、その結果を見て意図的に内容を書き分けられるものではありません。たとえできたとしても、そのような浅い地点から生まれた作品は、多くの読者を獲得することはできません。もし一時的に獲得できたとしても、そんな作品や作家は長持ちすることもなく、ほどなく忘れられてしまうでしょう。エイブラハム・リンカーンはこんな言葉を残しています。「多くの人を短いあいだ欺くことはできる。少数の人を長く欺くこともできる。しかし多くの人を長いあいだ欺くことはできない」と。小説についても同じことが言えるだろうと僕は考えています。時間によって証明されること、時間によってしか証明されないことが、この世界にはたくさんあります。