「海外に出て行く。新しいフロンティア(抜き書き其の二) - 村上春樹」新潮文庫 職業としての小説家 から

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「海外に出て行く。新しいフロンティア(抜き書き其の二) - 村上春樹新潮文庫 職業としての小説家 から

アメリカで作家として成功しようと思ったら、アメリカのエージェントと契約し、アメリカの大手出版社から本を出さないことには、まずむずかしいよ」と仕事で知りあった何人かのアメリカ人から忠告されました。また言われるまでもなく、たしかにそのとおりだろうなと自分でも感じていました。少なくとも当時はそういう状況だったのです。だからKAの人たちには申し訳ないけれど、自分の足を使ってエージェントと、新しい出版社探しをすることにしました。そしてニューヨークで何人かと面接した末に、文芸エージェントは大手エージェンシーICM(インターナショナル・クリエイティブ・マーネージメント)のアマンダ(通称ビンキー)・アーバンに、出版社はランダムハウス傘下のクノップフ(トップはサニー・メータ)に、クノップフにおける担当編集者はゲイリー・フィスケットジョンに決まりました。今思えば、よくもまあこれだけの人たちが僕に興味を持ってくれたなと驚いてしまうのですが、当時はこっちも必死だったから、相手がどれだけ偉いかなんて考えている余裕もありませんでした。とにかく知り合いのつてを頼って、いろんな人と面談し、「この人なら」と思う相手を選んだだけです。
思うに、この三人が僕に興味を持った理由は三つあるみたいです。ひとつは僕がレイモンド・カーヴァーの翻訳者であり、彼の作品を日本に紹介した人間であったということです。この三人はそのままレイモンド・カーヴァーのエージェントであり、出版社代表であり、担当編集者でした。これは決して偶然ではないと僕は思っています。亡きレイ・カーヴァーが導いてくれたことなのかもしれません(そのときは彼が亡くなってまだ四、五年しか経っていませんでした)。
二つ目は僕が『ノルウェイの森』を日本で二百万部(セット)近く売っていたことが、アメリカでも話題になっていたことです。二百万部というのはアメリカでも、文芸作品としてはなかなかない数字です。そのおかげで僕の名前もある程度業界的に知られており、『ノルウェイの森』がいわば挨拶の名刺がわりみたいになっていたわけです。
三つ目は僕がアメリカで作品を徐々に発表し始め、それがそこそこ話題になっており、ニューカマーとしての「将来性」を買われたこと。とくに「ニューヨーカー」誌が僕を高く評価してくれたことは、影響が大きかったと思います。ウィリアム・ショーンの後を継いで同誌の編集長をしていた「伝説の編集者」ロバート・ゴットリーブがなぜか僕を個人的に気に入ってくれたようで、彼自らが社内を隅々まで案内してくれたことも、僕にとっては素敵な思い出になっています。直接の担当編集者であったリンダ・アッシャーもとてもチャーミングな女性で、僕とは不思議に気が合いました。「ニューヨーカー」はずっと前に辞めましたが、今でも彼女とは親交があります。考えてみたら、僕はアメリカ市場では「ニューヨーカー」に育ててもらったようなものかもしれません。
結果的にはこの三人の出版人(ビンキー、メータ、フィスケットジョン)と結びついたことが、ものごとがいまく運んだひとつの大きな要因になっていると思います。彼らはとても有能で、熱意に溢れる人たちだったし、広いコネクションと、業界に対する確かな影響力を持っていました。それからクノップフの社内(名物)デザイナーであるチップ・キッドも、最初の『象の消滅』から最新の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』まで、僕のすべての本をデザインしてくれて、それはかなりの評判になりました。彼のブック・デザインを目にするのを楽しみに、僕の新刊を待っている人たちもいます。そういう人材に恵まれたことも大きかったでしょう。
もうひとつの要因は、僕が「日本人の作家」であるという事実をテクニカルな意味合いで棚上げし、アメリカ人の作家と同じ土俵に立ってやっていこうと、最初に決心したことにあるのではないかと思います。僕は自分で翻訳者を見つけて個人的に翻訳してもらい、その翻訳を自分でチェックし、その英訳された原稿をエージェントに持ち込み、出版社に売ってもらうという方法をとりました。そうすれば、エージェントも出版社も、僕をアメリカ人の作家と同じスタンスで扱うことができます。つまり外国語で小説を書く外国人作家としてではなく、アメリカの作家たちと同じグラウンドに立ち、彼らと同じルールでプレイするわけです。まずそういうシステムをこちらでしっかり設定しました。
そうしようと決めたのはビンキーに最初に会ったとき、「英語で読めない作品は自分には扱えない」とはっきり言われたからです。彼女は自分で作品を読み、価値を判断し、そこから仕事を開始します。自分で読めない作品を持ち込まれても、仕事にならないわけです。エージェントとしては、まあ当たり前のことですね。だからこちらでまず納得のいく英語翻訳を用意することにしました。
日本やヨーロッパの出版関係者はよく、「アメリカの出版社は商業主義で、営業成績ばかり気にして、地道に作家を育てようとしない」というようなことを言います。反米感情というほどでもないけど、アメリカ的なビジネス・モデルに対する反感(あるいは好感の欠如)のようなものを感じることはしばしばあります。たしかにアメリカの出版ビジネスにそういう面がまったくないというと、それは嘘になります。「エージェントも出版社も、売れているときはちやほやするけど、売れなくなると冷たい」と文句を言うアメリカ人の作家に何人も出会いました。たしかにそういうところもあるでしょう。でもそんな面ばかりではありません。気に入った作品に対して、またこれぞと思う作家に対して、エージェントや出版社が目先の損得抜きで力を傾注している例を、僕はあちこちで目にしてきました。そこでは編集者の個人としての思い入れや、意気込みが重要な役割を果たすことになります。これは世界中どこだってだいたい同じようなものじゃないかと思います。
どこの国であろうが僕の見る限り、出版関係の仕事に就こう、編集者になりたいという人は、そもそもが本好きです。アメリカだって、ただ単にお金をいっぱい儲けたい、贅沢に経費を使いたいと考えるような人は、まず出版関係にはやってきません。そういう人たちはウォール街に行くか、マディソン街(広告業界)に行くかします。特殊な例を別にすれば、出版社の出す給料はそれほど高額なものではないからです。だからこそそこで働いている人の間には多かれ少なかれ「私は本が好きだからこそこの仕事をやっているんだ」という自負があり、心意気があります。いったん作品が気に入れば、損得抜きで身を入れて仕事をしてくれます。
僕はアメリカ東部(ニュージャージーとボストン)にしばらく住んでいたこともあって、ビンキーやゲイリーやサニーと個人的につきあい、親しくもなりました。遠く離れた場所に住み、長い歳月にわたって仕事を共にするわけですから、やはり時々は顔を合わせていろんな話をし、一緒にご飯を食べたりもします。そういうところはどこの国だって同じです。すべてエージェントまかせで、担当者とほとんど顔も会わせず、「まあ、適当にやってください」という丸投げ的な姿勢では動くものも動きません。もちろん作品自体に圧倒的に強い力があれば、それでかまわないわけですが、正直なところ僕にはそこまでの自信はありませんし、何ごとによらず「自分にできることは、できるだけやってみる」という性分なので、できる限りのことは実際にやってみたわけです。日本でデビューした当時にしていたことを、もう一度アメリカでやり直したことになります。もう一回「新人状態」にリセットされたというか。