2/2「花月西行(其の二) - 上田三四二」新潮文庫 この世この生 から

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2/2「花月西行(其の二) - 上田三四二新潮文庫 この世この生 から

同時代人慈円西行の死を、「文治六年二月十六日未の時円位上人入滅、臨終などまことにめでたく存生にふるまひ思はれたりしに更にたがはず、末の世に有難きよしなむ申し合ひける云々」と詞書[ことばがき]して、寂蓮[じやくれん]に宛てて「君知るや其の如月といひ置きて詞に送る人の後の世」(「拾玉集」)と詠み、俊成は「つひに二月十六日望の日、をはり遂げけること、あはれに有難く覚えて」と前置きして、「願ひおきし花の本にて終りけり蓮[はちす]の上もたがはざらなむ」(「長秋詠藻」)の一首を献じた。また藤原良経「秋篠月清集」には、「西行法師みまかりける次のとし定家[さだいえ]朝臣[あそん]の許[もと]へ遣はしける、『去年のけふ花の本にて露消えし人の名残の果てぞかなしき』、返し、『花のもとの雫[しずく]に消えし春は来てあはれ昔にふりまさる人』」とある。当時の歌人がいかに西行の死を大きな事件として受け取り、その受け取り方に、いかに「願はくは」の一首が反映しているかが、わかろうというものである。
西行の場合、彼の「死のむこう側の死」すなわち死後は、彼の「死の瞬間における死」すなわち死際の栄光に光被されている。これは時人の眼にそう映ったというだけではない。西行の意識そのものにおいても、死の瞬間の高揚が死後を照らしていることが思われる。「願はくは花のしたにて春死なむそのきさらぎの望月のころ」 - この哀切というよりは豊潤に、死に向ってというよりは花月に向って、憧れわたる魂のかたちをみせて歌い上げられた「死の瞬間における死」の歌の美しさにくらべれば、「来む世には心のうちにあらはさむあかでやみぬる月の光を」の月の歌も、「仏には桜の花をたてまつれ我が後の世を人とぶらはば」の花の歌も、これら「死のむこう側の死」を歌う声のひびきは、西行の作のなかでも上の部に属するといっても何程のことはない。死後は死の瞬間におよばないのである。
西行に死後の信じられていたことは、二首の歌に見るとおりであっただろう。しかし西行にとって、死後は死の瞬間におよばない。西行の死後は、死の瞬間に揚がる美しい花火の、尾を曳いて闇に懸かり闇を渡る、その光芒の余勢のようなものではなかったかと思われる。
世に後世者流というのがある。後世人、ごせもの、とも呼ばれる彼らは、現世を穢土[えど]と観じて後世にその望みのすべてを託そうとする。彼らにとって現世を生きることは何の価値もなく、それはただ極楽往生のための準備期間にすぎない。今生は死後のためにのみあり、この世において死急[しにいそ]ぎにまさるよろこびはないのである。一例として、「一言芳談」はそういう後世者たちの生を厭[いと]い死に憧れる言葉に満ちている。

西行の死後は念持されている。信じられていると言ってもいいことは、これまでに見てきたとおりである。しかし、彼は後世者流ではなかった。西行は死に憧れたか。彼は花月に憧れたのであって、死に憧れたのではなかった。「死の瞬間における死」を歌った「願はくは」の一首は、死への憧れを語っているのではない。死をも輝かしいものとする月と花 - この現世の景物でありながら現世のものとも思われぬ感動を呼びおこすもの、それに対[むか]うとあやしい浮遊感なつれてゆかれ、陶酔に誘われるもの、美感としか名づけようがないために仮りにそう言っておくが、人のこころを至美、至純、至極の境にむかって押しあげ、昇りつめさせるもの、そしてそこでは時間が空虚ではなく充ちており、充ちることによって時間を忘れさせるもの、そういう蠱惑[こわく]の源としての月と花への憧れを、語っているのである。
この花月への憧れの極まるところに死を見たのが、「願はくは」の一首だが、しかしその死は「死の瞬間における死」であって、「死のむこう側の死」ではなかった。「死のむこう側の死」は、「来む世には」「仏には」の二首においてすでにみたように、「願はくは」の歌の持つ緊張と高揚を持続し得ていない。持続しようとは願っている。その願いが、「心のうちにあらはさむ」という意志の表明となり「桜の花をたてまつれ」という供養者への要請となっているが、ここで注意すべきことは、死者としての西行の意志の表明なり供養者への要請なりが、月と花という、彼が生前、いのちにかけて憧れわたった美の景物であるということだ。言いかえれば西行の死後は、彼の生前の延長として考えられ、そのようでありたいと希望されているのである。
生前の延長としての西行の死後は、その生前の憧れの完成と言い得るか。言い得ないことは二首の死後の歌に見るとおりであり、そこにあるのはむしろ、生への飢渇[きかつ]ではないだろうか。「あかでやみぬる」に私はそれを感じる。「仏には桜の花をたてまつれ」にも私はそれを感じる。死者は満月が照り桜の花が映える現世を恋うており、死後の世界は現世とちがってそこに月の光はないゆえに、せめてのことに「心のうち」にあらわそうと歌い、また桜の花もないゆえに「仏には桜の花をたてまつれ」 - それが私にたいする何よりの供養だと歌うのである。死後の世界は西行にとって、あの死の瞬間における高揚と光輝にもかかわらず、何か不充足の、光に欠けた場所として認識されている。.....