「サーヴィス精神 - 三島由紀夫」角川文庫 不道徳教育講座 から

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「サーヴィス精神 - 三島由紀夫」角川文庫 不道徳教育講座 から

人間ぎらいで知られた故永井荷風氏も、一旦会ってしまった人の前では、それなりにニコニコして、相手をそらさぬ応対をしたと言われ、これを世間では「都会人の弱気」と呼びます。文豪と呼ばれる某大家なども、会ってみるとこちらが恐縮するほどテイチョウ[難漢字]で、ある会合で、わざわざ私の外套を椅子の上からとって渡してくれたこともありました。世間で傲岸不遜[ごうがんふそん]でとおっている人でも、会ってみるとびっくりするほど当りの柔らかい例は、統計をとってみると、たしかに都会人に多い。吉田茂氏なども、お国は四国かもしれないが、こういう都会人の一人なのでしょう。
もちろん都会人のこういう「弱気」、当りの柔らかさ、サーヴィス精神などというものは、子供のときからの社会的訓練のあらわれで、エゴイズムによる自己防衛の本能のあらわれです。あるいは又、そこはかとない恐怖心のあらわれです。人間関係が、あらゆる人間ぎらいの底にはひそんでいます。
これに反して、自分の善意や他人の善意を簡単に信じているような、心の素朴な、いわば心の美しい人は、地方出の人に見られます。ところが、こういう人のほうに、却って、無愛想きわまる無礼千万な人物、初対面の人にも威圧的な口をきいたり、木で鼻をくくったようなアイサツをしたりする人物が多いのはなぜでしょう。
子供のころから少年時代にかけて、美しい自然に親しみすぎた人は、どうも根本的に人間恐怖を知らないようにみえる。大人になって人間世界の怖ろしさをつぶさに知っても、まだ人間の善意を信じているのはこういう人たちで、「人間の善意を信じること」と「無愛想」とは、楯の両面なのであります。木にのぼって柿をとったり、清らかな川で泳いだり、山の尾根づたいに戦争ごっこをして遊んだり、.....地方の子供たちは、そういう生活のあいだに、おのずからガキ大将や子分の役割をうけ持って、社会生活や生存競争を学びこそしますが、都会の子のように、早くから大人の顔色を読むようなことはおぼえません。
都会の子にとっては、大人の顔色を読むことが、お菓子を沢山喰べたいという欲望を満足させるために必要なばかりではなく、戦争ごっこやキャッチボールやプールでの水泳のためにさえ、たえず大人の許可を必要とします。何故なら子供の遊びの空間は、大人の持っている空間を貸してもらうことに他ならないからです。そこは野原や、海や、丘とちがって、本来大人のいるべき場所なのです。
こういうことを学ぶにつれて、子供は大人に対する外交技術をマスターしますが、それは一種の弱者の媚態に他ならないから、少年時代になるとそれがものすごい自己嫌悪の原因となり、むやみやたらと大人や社会に対して反抗する。しかしこんな反抗も、媚態や甘えの裏返しにすぎません。
都会では、子供のうちから、人はこういうことを学びます。
「人を傷つけちゃいけないぞ。そうしたら、きっとお返しが来る。人を傷つければ、こちらも傷つかないわけにはゆかなくなる。
人を尊敬したり、信用したり、相手の善意を信じたりすれば、きっと裏切られて、ひどい目にあうぞ。親だって大人なんだから、父性愛だの母性愛だのって美名にだまされたら大変だ。眉にツバをつけてきかなくちゃならん。兄弟はもっと信用ならんし、兄貴や姉貴はまるでケダモノだ。おじさん、おばさんなどというヤカラハは、これ又、油断もスキもならん存在だ。学校の先生は両親のスパイだし、両親は先生のスパイだ。僕に、甘言を以て近づいてくる大人は、みんな腹に一物あるヤツばっかりだし、その上へんに自尊心が強いと来てる。
人を尊敬せず、信用せず、善意を信じないとなれば、友好的に行くにかぎる。十歳にして大外交官とならねばならん。表面だけは、いかにも相手を尊敬し、信用し、善意を信じるふりをするべきだし、その場限り主義を、絶対に忘れるべからず。そしてつまらぬことで相手を傷つけず、なるだけ相手のハートをマッサージして、いい気持にさせて帰してやるべきだ。
だんだん僕も大人になったら、大人に対する八方美人的外交はやめにしょう。それは損なだけで、こちらを安っぽく見せるだけだ。特権を与えてもらったという錯覚を、相手に抱かせねばならん。そのためには、丈夫な柵を僕のまわりに張りめぐらし、合法的に柵の中へ入って来た人間にだけ、笑顔を見せてやる。それもとろけるような笑顔を見せてやるのだ。
こんな態度は、なるたけ不公平に、気まぐれに、不合理にやらねばならん。そうすれば、そんな僕の笑顔が相手のためではなく、僕の性格の証明ということになって、ますます値打が出る。
それから、笑顔を見せてやる相手は、えらい奴ばかりではいけない。えらい奴と同時に大バカにも、笑顔を見せてやらなければいけない。バカは信じやすいし、感激性があるし、僕に笑顔を見せられたことを人に吹聴するし、その結果、僕が笑顔を見せたえらい奴も、自分の特権意識を捨てざるをえなくなるだろう。オレがえらいから、あいつが笑顔で応対したのだ、とは思えなくなるだろう。これが一番大切だ。
そこで僕は、貴族的な評判と民主的な評判とを、どっちも自分のものにすることができる。この二種類の評判は、どっちが欠けてもいけないものだ。
バカはなかなか利用価値のあるものだ。バカにはときどき我慢ならなくなるが、バカに我慢することも、学ばなければいけない」
十歳の外交官は、こういう政治哲学を、都会でしらずしらず身につけます。それが何十年かたつと、永井荷風氏や吉田茂氏になるのであります。これは全く「都会人の弱気」というものであろうか?
然り、或る意味では、やはり弱気です。彼らは、こんな政治哲学の結果ニッコリするのではなく、人前へ出ると、ほとんど無意識に、不可抗力によって、われしらずニッコリしてしまうのだからであります。そしていつのまにか、きびしい政治哲学を忘れて、人を笑わせ、自分も笑い、結構たのしく遊んでしまう。われに返ると、自分の過剰なサーヴィス精神がつくづくイヤになり、人類全体に対して無愛想になりたいと思うが、人の顔を見てしまったらおしまいだから、仕方なく一人ひきこもって門扉を閉ざすのであります。
イヤなものをイヤといい、バカにむかっては躊躇なくバカ呼ばわりをし、退屈すれば大アクビをし、腹が立てば怒鳴り、返事をしたくないときは返事をせず、自分がおかしかったら勝手に笑い、相手のつまなぬ冗談などは笑わず、人の思惑を考えずに威張りたいだけ威張り、人にきらわれてもかまわず自慢したいだけ自慢し、相手の関心など斟酌なく自分の好きな話題だけえらび、.....そういうことのミゴトに出来る人を大人物といいます。こういう大人物は、こんな態度を決して人間から学んだのではない。コヤシの臭いのする美しき田園から学んだのであります。
ところで人は、大体、類を以て集まります。人間恐怖症のサーヴィス精神の持主は、サーヴィス精神の持主と仲好くなり、大人物はたいてい大人物と仲好くなる。そして大人物同士の付合というものは、小心な都会人には想像もつかないが、どんなに相手を傷つけても、おたがいに痛くも痒くも感じないらしい。ですから、大人物になりたかったら、若者よ、皮膚をきたえておけ、と私は言います。選挙に出るほどの人物は、やはり大人物に限られているのですから。