「金がないことを「下流社会」という下品さに誰も気づいていない - 北野武」 幻冬舎文庫 全思考 から

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「金がないことを「下流社会」という下品さに誰も気づいていない - 北野武」 幻冬舎文庫 全思考 から

売れない頃、浅草で、誰かが落とした痔の座薬を拾って家に帰って、俺も痔が悪かったから、その座薬を尻に入れながら、「俺はいったい何をしてるんだ」って情けなくなったことがある。
言うなれば、あのポルシェのようなバカな話は、そういう貧乏時代への復讐戦だった。
玩具の国に連れて来られた貧乏人の子供みたいに、金を玩具にして遊んでいたわけだ。
いちばん仕事をしていた時期は、1年で27億円くらい稼いだこともある。芸人が1カ月で2億円稼ぐのは、株や土地の売買で儲けるのと訳が違って、肉体的にも精神的にもくたくたになる。おまけに貧乏でひもじい思いをしていたときには、もちろん何にも手助けしてくれなかった税務署が、当たり前という顔でとんでもない額の税金を持っていく。
税務署はせめて「ありがとう」の一言くらい言えと思うのだが、感謝の言葉はいままで一度も聞いたことがない。
馬鹿な無駄遣いもさんざんしたけれど、金のことで大怪我せずにすんだのは、カミさんのおかげだ。給料袋の時代から、稼ぎは中身も見ずにカミさんにそっくり渡している。
だから自慢じゃないけれど、俺はいまだに自分の稼ぎがいくらか知らない。俺が毎月使う金は、カミさんからもらう小遣いだ。子供の頃の俺がその額を聞いたら、顎がはずれたかもしれないが、小遣いの範囲で遊ぶという生活は変わっていない。
昔は「あんた先月、あんまり働いてないわね」なんて言われて、なんだコノヤロウって怒ったりしたこともある。だけど、俺にはそういうやり方が性に合っているようだ。
男と違って、女は金を玩具にしないから、カミさんはいつの間にかやりくりしてビルを買っていたりする。クルマで街を走っているとき、マネージャーに「あれ、タケシさんのビルですよ」なんて指さされて、びっくりしたことも何度かある。

ウチは特別だったかもしれないけれど、金に関しては、子供の頃から厳しく教育されていた。金のことでつべこべ言うと、母親にこっぴどく怒られたものだ。
誰だって、金は欲しいに決まっている。だけど、そんなものに振り回されたら、人間はどこまでも下品になるというのが俺の母親の考えだった。貧乏人の痩せ我慢と言ったらそれまでだがそういうプライドが、俺は嫌いじゃない。
人間は殺生しなきゃ生きていけない。セックスしなきゃ子供はできないし、ウンコも毎朝しなきゃいけない。そして生きていくには金が要る。
俺は金が欲しいだなんて、そんな当たり前のことを言うのは、俺はウンコするのが大好きだと言うのと同じというわけだ。
人間なんてものはどんなに格好をつけていても、一皮剥いたらいろんな欲望の塊みたいなものだ。でも、だからこそ、その一皮のプライドを大事にしなきゃいけない。それが文化というものであろう。
お金がないことを、そのまま「下流社会」といってしまう下品さに、なぜ世の中の人は気づかないのだろう。300万円だかいくらかだかの年収で暮らすなんて本が売れたこともあったけど、「武士は喰わねど高楊枝」という気概はどこへ消えたのか。金持ち面したい一心で、ブランドバッグの大安売りに目の色を変える浅ましさを、もう誰も笑わなくなってしまったのか。
ウチは貧乏だったけれど、母親は商店街で投げ売りをしているような店には、絶対に並ばなかった。どんな遠い店でも、1円のお客を大切に扱う店に通っていた。
「持ってけ、泥棒」だなんて言われて買い物をすることに、我慢ができなかったのだ。
昔はそういう共通認識があった。
だから、それを逆手に取って、ギャグにしていた。インタビューされたときとかに「俺だけ金を儲けて、俺だけ幸せになればいい。他人なんてどうだっていい」なんて言うと、昔の記者ならゲラゲラ笑っていた。そんな身も蓋もないことを言うもんじゃないという感覚がみんなにあったから、平気でそれが笑いになったのだ。
だけど近頃は、下手をすると「ああそうですか」って、普通の顔で聞いている記者がいる。あれ、この記者は本気で俺がそう考えてると思ったのかなって。今のはギャグだよ、なんて訂正すりわけにもいかないから、弱ってしまう。
そういうことがギャグにもならない時代になってしまったのは寂しいなあと思う。
 
友情は金じゃ買えないという話も同じことだ。
金で買おうとする根性が間違っているという話ではなく、そもそも友情の意味がわかっていない。
友情が金で買えないのは当たり前だ。何故かといえば、そんなものはハナっから存在しないからだ。ないものを買おうとしちゃいけない。
「お前に困ったことがあったら、必ず俺が助けてやる。俺が困ったときはお前が助けてくれ。俺たち友達だよな」
こんなものは友情なんかじゃない。
ヤクザの兄弟杯と一緒で、単なる保険の掛け合いでしかないわけだ。保険は大きく、たくさんあった方がいいから、ヤクザは兄弟分をできるだけ増やそうとする。
だけど2、3人の仲間内で掛け合う保険は、おろしようがない。というか、誰かが損をしなけりゃいけなくなる。ということは、誰かと友達になるということは、最初から損をする覚悟をしておかなきゃいけない。いい思いをするというのは、相手に確実に迷惑をかけることになるのだ。
「お前が困ったら、俺はいつでも助ける。だけど、俺が困ったときは、俺は絶対にお前の前には現れない」
これが正しい。お互いにそう思っているところに、初めて友情は成立する。
昔助けてやったのに、なんで今度は俺のことを助けてくれないんだ?なんて思うとしたら、そんなもの初めから友情じゃないのだ。自分が本当に困っているとき、友達に迷惑はかけたくないと思うのがほんとうだろう。
要するに友情というのは、こっちから向こうへ一方的に与えるもので、向こうから得られる何かではない。友情とは、自分の相手に対する気持ちだ。
友情から何かを得ようと考えることが、そもそも間違っている。
損得尽くで考えるなら、友情は損するだけのもの。
だけど、アイツが好きだ。困っているのを知ったら、助けてやりたい。
そういう自分の気持ちを、買えるとか買えないとか言っていること自体がおかしいな話なのだ。

ふっと周りを見回して、そういう風に思える友達が一人でもいたら幸せだ。
変な言い方だけど、自分のために死んでくれる人間が何人いるよりも、そいつのためなら命を賭けられるって友達が一人でもいる方が、人間としては幸せだと思う。
友情が大切だっていうのは、本当はそういう意味だろう。
そう考えると、自分には何人の友達がいるのか.....。
芸人同士は、友達になるのが難しい。
歳の離れた先輩後輩の関係なら「お前ら売れてきたな。たまには奢ってくれよ」なんて言って、一緒に飲んだりもする。けれど、5年、10年の差がないと、そういう関係にはなかなかなれない。しかも、自分のことを考えてみても、そういう仲のいい先輩は、たいがい諦めた人だった。売れるのを諦めた人だ。
昔は演芸場があったから、芸人としては喰ってるけど、テレビやなんかで活躍するのはもう諦めたって先輩がけっこういた。そういう人たちは、駆け出しの俺たちみたいなのをよく可愛がってくれた。
先輩でもテレビで活躍している人にとっては、有望な新人は天敵みたいなもんだ。「コノヤロウ、若いくせに売れやがって。潰してやる」なんて思っていたはずだ。同じ世代の芸人は、もちろん最初からライバルだ。
漫才と漫談は似ているようでも、サッカーと野球ぐらいに違うから、綾小路きみまろさんにライバル心を燃やしたことはなかった。
それでも、同じ時代に同じ若手として舞台に上がっていた同士として、意識はしていたんだろう。テレビの仕事が馬鹿みたいに忙しくなって、ほとんど浅草に足を運べなくなってからも、綾小路はどうしているのかな、なんて思い出すことがあった。あの人の才能を、心のどこかで認めていたんだろう。
それが25年も経って、いつの間にか世間に綾小路きみまろの名前が出てきたときには、まあここまでいろいろ理屈を並べてきたけれど、ほんとうのことを言うと、そういう理屈を抜きにしても、なんだか嬉しかった。すごいなあ、よかったなあって。
あれは、どういう心の働きなんだろう。