「柿 - 團伊玖磨」朝日新聞社文庫 なおパイプのけむり から

f:id:nprtheeconomistworld:20200128081916j:plain


「柿 - 團伊玖磨朝日新聞社文庫 なおパイプのけむり から

岐阜の友人が立派な柿を沢山送って呉れて、その箱がスト権ストの直前に着いたので、ストライキ中は、一週間というもの、東京に出ず、柿ばかり食べていた。
果物は体に良いから食べるようにと医者からも家の者からも言われるのだが、困った事に、僕は酸っぱいものにからきし弱いので、グレープ・フルーツ、オレンジ、蜜柑の類、苺、桃、葡萄、皆余り好きで無い。桃や葡萄等は、酸っぱくありませんよ言って人は僕に奨めるが、僕には酸っぱいのだから仕方が無い。たとえ甘さが勝っているために酸味が弱く感じられても、酸いもの酸いし、若しかしたら酸いのでは無いかと思うだけでも、これらのものを食べる気にはなれないのである。従って、僕が安心して食べる果物は、メロン、西瓜、真桑瓜、バナナ、柿等のように、酸味のほとんど無いものに限られている。無論、酸味のある果物でも、食べようとすれば食べられなくは無いのだが、どうも安心が行かないので、つい避けてしまうのである。
その点、柿は全く安心である。渋いかも知れぬという不安はあっても、酸いかも知れぬという不安に較べれば僕にとっては何でも無いし、柿に酸味を感じる事は先ず無い。
柿ばかり食べていたら、これもストライキのため東京の大学に通えず、家にごろごろしていた息子が、余り柿ばかりを暴食するのは良くないと言うので、どうしてかと訊くと、便秘になると言うのである。本当がどうか怪しいとは思ったが、老いては子に従えという格言をこの頃は信奉しているので、量を減らして、一日四個と定め、その四個も、上目遣いに、こそこそと食い続けた。そのためかどうか、便秘などには全くならなかった。
 
柿の事はPersimon, 若しくはJapanese Persimonと外国では言うと学校でならったのだが、この頃では、外国を歩いていると、メニューや果物屋の店頭で、Kakiと記し、人もそう呼んでいるのを見聞きすることが増えて来た。安永四年に日本にやって来たスエーデンの植物学者ツーンベリが、柿にDiospyros Kakiという学名をつけたそのkakiが一般化したのか、日本語名が流行して行ったのか知らないが、何時の間にかAwabiやKimonoが国際語になったように、Kakiは万国語に成りつつあるようである。
イタリヤの友達とミラノのリストランテに行って柿を食べていたら、そのイタリヤ人が、このkakoは美味しいね、と言ったので驚いた。イタリヤ語の男性名詞の語尾音は、原則的に、単数はoであり、複数はiで終る。だからイタリヤ人はkakiという語はkakoの複数だと思っている訳で、食べていた柿は一個だったのkako になってしまったのである。同じような原因で、kimonoは、二枚以上の時はkimoniになってしまう。何だか変だけれども仕方がない。
 
十年程前、晩秋の事だった。丁度その土地に地震が頻発していた時、詩人の尾崎喜八さんと一緒に信州の松代に行ったことがある。何とかという古い宿屋に泊ったのだったが、地震が続発しているために、宿屋の部屋は、奥や二階の上等な部屋程危険が多いため安く、玄関脇の、常には下足の小父さんが泊っている三畳間が一番上等な部屋だという事になっていた。僕達はその上等な三畳間で酒を呑み、食事をし、枕を並べて寝た。翌日から、僕達は晩秋の信州の農村を心ゆくばかり歩いた。そのどこででも、柿が鈴成りだった。柿がこんなに迄美しい眺めになるという事を僕は知らなかった。柿は、朝日にも、昼の陽にも、夕日にも輝いて、僕達が歩いた村々に続いていた。尾崎さんは亡くなってしまわれたが、あの冷たく澄んでいた信州の空気と、その向こうに光っていた柿の一粒一粒の美しさと、純粋そのものだった尾崎さんのすがすがしさは一つになって、僕の心が晩秋を感じる時に必ず蘇って来る。

二年前迄住んでいた借家の庭には、一本の柿の木があった。根本に継ぎ木の跡があったので甘柿だと思っていたのだが、渋柿だった。冬迄枝に残った実は、熟れ切って甘くなり、鵯が集まった。鳥が集まり始めると、柿が甘くなった事を知って、子供を木に登らせて、柔かくなとった実を採らせて家中で食べた。気が向いた年には、渋い実を子供に採らせて、湯に浸して醂[さわ]したり、樽に詰めて焼酎を吹きかけて、所謂樽抜きをしたりもした。

春、若葉が萌えて光る頃、若葉を採って、蒸して、陰乾しにして、柿茶を作るのは毎年の習わしだった。柿茶に湯を灌[そそ]ぐと、春そのものといった薄緑の茶がはいった。ヴィタミンCが豊富に含まれているとかで、家中でそのお茶を呑んだ。

細かい亀裂の多い小豆島の柿の幹には、着生蘭が好んで着くという事を八代田貫一郎さんの本で読んだので、八丈島から持って来た石斛[せきこく]と、三浦半島の木古庭[きこば]で梅の古木から採集した瓔珞蘭[ようらくらん]と、昔から鉢で育てていた風蘭を高枝や主幹に着けた。着生蘭たちは一年のうちに根を亀裂に喰い込ませて、面白いように育ち、毎年、どの蘭もがそれぞれ晩春には花を着けるようになった。
今の家に越す時、これらの着生蘭を折角根を張った柿の木から離すのは可哀そうに思って、僕はその儘にして借家を出た。新しく越す家には、着生蘭を着けるような大きな木は無かったからである。
柿の木は、今、苗を数本育てている。然し、この苗が大きくなって、着生蘭を着けられるようになる迄には、発育の早い柿ではあっても、あと十五年は待たなくてはならないだろうと思う。
去年も今年も、僕の残して来た着生蘭は、懐かしい柿の木で、晩春の花を咲かせたと思う。